真昼の星 本文
プロット的なもの。
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プロローグ
○岩下家居間。 夜 友則(とものり)
友則がやや疲れた顔でお茶を飲んでいる。
そこへ秋子がやってくる。
友則、秋子の気配に気がついて顔を上げる。
「かしゃーん」と小さく乾いた音。
ふたりはその音の方向(外)に視線を転じる。
秋子、去る。
友則、ため息一つ。
○岩下家あずまや。 同 秋子、貴子。
秋子があずまやの中にある貴子のアトリエに入ってみると、
果たして大荒れに荒れた貴子が微動だにせず仁王立ちになっている。
足元には割れた薄い絵の具皿。貴子の左手にはパレットナイフ。
見えない力を振り切るように、貴子の左手がじりじりと上がり、
やがて秋子にパレットナイフを差し出す。
秋子、左手でそれを受け取って、即座に右手で貴子の左腕を掴むと
自分の方に力いっぱい引き、貴子を抱き留める。
ナイフを手渡した貴子は、体力を使い果たしたかのように崩れ落ちそうになるが、秋子の機転で、秋子の腕の中に収まった。
ふたりは抱き合ったまま、重力に逆らわずに、しかしゆっくりと床に座り込む。
貴子の顔は真っ青である。
秋子
よく、耐えたわよね。子供達の手前。……ありがと。
もう、泣いて良いわよ?
やがて貴子の体が小刻みに震えるのが、秋子に伝わってくる。
糸を引くような小さなすすり泣きが聞こえはじめる。
そして嗚咽へと。
暗転。
○岩下家居間。 同夜 友則、秋子
友則 が新聞を読んでいる。
秋子がお茶を盆に乗せて戻って来る。
秋子
(お茶を友則の前に置きながら)寝たわ。こっちはやっと。
友則
本来なら、俺たちが君を慰めなければいけないのに。
秋子
(首を横に振る)いいの。……あまりに突然で、
私自身どうしたらいいか分からないの。
秋子
初めてのことじゃないけれど、
こういうことって何度経験しても慣れないわね。
秋子
3度目の正直だったのに。
母の時も、父と兄の時も出なかったの、涙が。
だからね、お祖母ちゃんの時は出るかなって、ずっと思ってたのに。出ないのよ。涙。
秋子
だから、嬉しいの。貴ちゃんが泣いてくれて。
あんなに、子供みたいに泣きじゃくって。
泣き疲れて眠ってくれたことが嬉しいの。
私、どこか変なのかしらね?
友則
そんなことは、ないさ。喪主という立場はどうしても泣けないものだからね。
俺も、親父の時はまったく泣けなかったよ。
いきなりのことだったし。ただただ途方に暮れていた。
友則
あの顔を思い出すたびに、毎度の爆発モードはまだ本気で怒っているわけじゃないよな、とつくづく思うよ。
あんな顔の貴子は、後にも先にもあれ一度きりだ。
秋子
私が泣けない分、貴ちゃんが泣いてくれたんだわ。
友則
今はゆっくり休んだろうがいい。貴子も、君も。
暗転
○岩下家居間 次の日のお昼時。 秋子。
昼ご飯の用意ができた秋子。
インターフォンを使って、表(店)に声をかける。
ややあって、友則がのっそりと表から戻ってくる。
秋子
明日までお店お休みにしているんだから、
もっとのんびりしていたらいいのに。
友則
ああ。ちょこっとだけ片付けておこうと思ってね。
……でー。貴子はまだ寝てるのか?(定位置に座る)
秋子
そうみたい。でも起こしてくるわ。
じゃないと、こっちも片付かないし。
冷めちゃうから、先に食べてて?
秋子、居間から去る。
○岩下家あずまや。 同 秋子。
貴子が寝ているはずの“あずまや”は「もぬけの殻」。
テーブルの上には1枚の紙。
秋子
(紙を取り上げて読む)……そんなこと言われても……ねぇ。
紙には一言『すぐ戻る』
しかし秋子はその言葉が一番信用ならないことを、体験的によく知っている。
エプロンのポケットから携帯電話を取り出して、ぴぽぱとキーを押す。
呼び出しコール3回きっちりで、相手は出た。
秋子
東郷君、悪いんだけど法務部に問い合わせてくれないかしら?
東郷
(声のみ)はい。メモを取りますので少々お待ちを。
……はい、どうぞ。
秋子
あのね……家族親族にご不幸があった場合のお休み規定なのだけど、
それ、私にも適用されるのかしら?……て。
東郷
(同)……え? は? あ、あの……なにか、ございましたか?
秋子
んー……2、3てとこかしら。……だからね、さらに申し訳ないんだけど、車を1台、用意していただけるかしら?
東郷
(同)(やや困惑しながら)……畏まり……ました。
秋子
ごめんなさい。明日から出ようと思ってたのに。
東郷
(同)いえ。こちらはもう少しお休みを取られてはと、申し上げようと思っていたので。
そして本編。
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○四国某所 秋子、香穂里
四国某空港の駐車場。
秋子とカホリが対峙している。
カホリは苦虫をかみつぶしたような顔。
カホリ
……で? どーして私が呼び出されなきゃいけないワケ?
秋子
いいタイミングで私に電話してきたからじゃない?(悪びれずに言う)
カホリ
ガンタに繋がらないからあんたに電話してみただけなのに。
……まったく、なんてことかしら。
秋子
それにしても、ちょうど実家(こっち)に戻ってたなんて。
カホリ
法事だったのよ。これで最後にするから帰ってこいって、母がうるさくてね。
カホリ
曾祖父と曾祖母。ふたり同時に五十回忌。だからまぁ、 帰ってくるのは当然かもね。古い慣習が残ってる地域だし。
カホリ
もちろん、会ったことなんてないわよ? 私が生まれる十年くらい前の話だもの。
ひいばーさんも同じ年に亡くなったんだって。
おない年だったらしいから、さぞかし仲がいい夫婦だったんでしょうよ。……て、あんたこそ大変な時なのに、あいつなんかにかまけてていいの?
カホリ
相変わらず、あいつを甘やかしてるわよね。本来なら落ち込んでるのは あんたで、あいつが慰めるべき立場にいるんでしょうに。
カホリ
ま、そのあたりはあんたたちの問題だし? 私がどうのこうの言っても、所詮は赤の他人だしね。
カホリ
もうずいぶん前に別れたわよ。……そもそもあいつ、本気で他人を愛するなんてこと、できない人間じゃない。
カホリ
ゲージュツ家なんてヤツは大なり小なり自分がかわいいナルシストだけど、あいつは特にそうよね。自己愛が強すぎて、他人なんか目に入っていないんだから。
……ところで、さ、秋(しゅう)ちゃん?
カホリ
一体全体、この車はなんなの? ……というか、どういうワケ?
カホリ
……そう。
どう見ても、あんたん家(ち)のダンナが使ってるタイプの車に
見えるけど?
秋子
回りくどく言うのはやめて、「トラック」って言ったら?
ふたりの傍らには、2トントラックが一台。
素敵に磨かれてぴかぴか輝いている。
カホリ
なんで、この車なワケ?
運悪く実家にいた私が呼び出されたのと関連があるの?
秋子
あるわね。
あなたがいたから、この車にしてもらったんだもの。
秋子
三人並んで座れるから、ちょうどいいのよ。
それに、貴ちゃんがいつも乗ってる車によく似ているから、落ち着きやすいと思うのよね。
カホリ
するわよ、私が。2t(この)くらいだったら搬入の時にいつも使ってるし、私の方が道には明るいしね。
ガンタを押さえる役は、あんたに任せる。
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○トラックの中 秋子 香穂里
トラックの運転席にカホリ、助手席に秋子(しゅうこ)。
ふたりの間にはコンビニ袋。中身は飲み物とか飴とか一口チョコとか。
【補足】トラックはいわゆる『箱付き』タイプ。
レンタカーではなく、どこかの子会社から借り受けてきたものと思われる。
“総裁”が乗るということで、急遽ぴっかぴかに磨かれたらしい。
ダッシュボードの上の芳香剤の瓶が真新しい。
カホリ
(運転しながら)……変なクセが付いてるわね。
秋子
受け取った場所から空港までは私が転がしてきたんだもの。
カホリ
あのでっかい秘書さんが持ってきたのかと思ってたわ。
秋子
学(さとる)兄さんは、私が急遽休んでる分忙しくなってしまったから。
カホリ
ところでさ、その東郷氏。いい顔しなかったんじゃない? 今回も。
秋子
「羽を伸ばして来てください」って送り出されたわ。どういう風の吹き回しかしらね?
カホリ
私にはそう見えるけど? 奥さんも子供もバッチリ持ってるけど、
『アンドレ』っぽいわよねぇ。
カホリ
ええ、そう。あんたは性格的に『オスカル』というよりも
『ロザリー』って感じだけどね。
カホリ
ガンタ……じゃないわね。アレはどっちかというと『マリー・アントワネット』だもの。
秋子
(ちょっと考えて、ぷ、と吹き出す)そう……かも。
じゃ、あなたは『フェルゼン卿』?
カホリ
さて、どうかしら?
性格『ロザリー』の『オスカル』さま、『アントワネット』さまは、どちらにいらっしゃいますかね?
秋子
とりあえず、愛媛に向かいましょう。
もう、そこしか考えられないから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○トラックの中 香穂里、秋子
カホリが運転している。窓の外は山間部の国道。
晩夏の風景が流れている。
盆過ぎとはいえ、暑い。
カホリ
毎度思うのだけど、こういう時って男の方が動くものじゃないかしら?
秋子
そうしたいのは山々みたいだけど、友ちゃん……主人ね、貴ちゃんとの間合いを計りあぐねてるところがあるのよ。
秋子
そういうわけでもないんだけどね。つい私が出しゃばってしまうから。
秋子
そうかしら? 少なくとも、私という存在があるから、余計に一歩引いちゃった部分があると思うのよね。
本当はもっと早いうちに、お互い踏み込んで話し合うなりなんなりしないといけなかったんじゃないかしら?
秋子
口や態度では「心配してます」って表現するし、私にはいろいろ相談してたんだけど、一緒になるちょっと前くらいから「見守る」ってスタンスに完璧にシフトしちゃって。
どちらかというと事なかれ主義的な部分もあるしね。
カホリ
男なんて大なり小なり保身主義なところがあるからね。
同性兄弟や姉ならまだしも、妹で、さらに血が繋がってないから余計に分からない気になってるのかもね。
秋子
そうね。……だからといって、私も貴ちゃんのこと、すべてが分かっているわけじゃないのよ?
カホリ
そりゃそーだわ(カラカラと笑う)
……これだけはあんたも分かっていると思うけど、ガンタには素でつき合うのが一番じゃない?
遠慮とか建前とか虚飾とか、そんなものは一切通用しない小僧なんだから。
秋子
……(カホリをしばし見つめて。そして視線を戻す)そうね。
……。
ねぇ、ずっと思っていたんだけど。
秋子
カホリさ、昔から貴ちゃんのことよく『小僧』って言うけど……。
カホリ
アレが内も外も女だってことは分かってるわよ?
でも大人の女にはほど遠いわよね? 中身が。
カホリ
単に、女には見えないってことよ。『おんなのこ』でもないわね、あの小憎たらしさは。
だからといって『男』でもないし『おとこのこ』というわけでもないわね。だから、『小僧』。
……ああ、ヘンなヤツに引っかかっちゃったなぁ。こんなことならあのまま退学して、留学したまんまにしとくんだった。
カホリ
休学生に“回生”を付けられるならね。
うっかり「なんか面白そうなヤツがいるぞ」って思ったのが運の尽きだったわ。
秋子
貴ちゃんもかなりインパクトがある学生だったけど、カホリも同じくらい強烈な学生だったわね(楽しそうに鼻で笑う)
カホリ
あら、私に言わせれば、あんたほど毛色の違う学生は、他にはいなかったけどね。
ガンタは別格。あれは……『小僧』だからね。
間
カホリ
ガンタのことはいいのよ。あんたのダンナ、兄さんのこと。
カホリ
『友ちゃん』でいいわよ。言い換えるの面倒でしょ?
カホリ
あんたが柳原グループのトップだって知ってて結婚したんでしょ?
秋子
事実婚だけどね。子供ができるたびに結婚して離婚したから、お互いバツ2なの。
カホリ
いーじゃない。私なんて、紛う事なきシングルマザーだもの。相手から養育費ももらってないわよ。
そもそも行きずりみたいなもんだったし(ころころ笑う)
カホリ
……『若いは馬鹿い』ってねー(うっひゃっひゃっひゃ、と笑う)
秋子
私にもあなたのような強さがあればよかったのかもね。友ちゃんには迷惑ばかりかけてるわ。
カホリ
そのあたりもふたりで話し合って決めたんでしょ?
秋子
ううん。ほとんと私の考えを通したようなものだから。
秋子
うん。そう……だと思う。
友ちゃんと今の形で一緒になるって決心したとき、あの人が言ってくれた言葉に、私は背中を押してもらったもの。
秋子
『君以外の人を、この家に迎える気はない』って。
カホリ
(ヒュー、と口笛)……ごちそうさま。
かっこいいじゃーん。優柔不断で事なかれの割には……ねぇ。
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○とあるコンビニ(道の駅かも知れぬ)の駐車場。 秋子、香穂里。
秋子
(買ったものを確認しながら)これだけあればいいかしら?
カホリ
……ねぇ、本当にこの道でいいの? どんどん山奥に入っていくんだけど?
カホリ
国道の3ケタ末番あたりって信用しちゃいけないわぁ。
……ふたケタ県道の方が立派な道だったりするわよね。
秋子
ちゃんと集落になってるわよ。過疎の村ではあるけどね。
秋子
いいえ。果樹が主ね。それとお米。あとは自分ちで食べる分の野菜とか。
秋子
ええ。ミカンをね、作ってたの。友ちゃんと一緒になってからは、時折野菜とかお米とか送ってくれてたわ。
なぜか貴ちゃんと意気投合しちゃってね、お祖母ちゃん。
カホリ
……相変わらず、女性にモテますこと、おたくの妹さんは。
許容範囲が広すぎ。
秋子
そうね(苦笑)
ひとりでふらりと行くこともそれなりにあったみたい。私よりも会ってたんじゃないかしら?
カホリ
私が実家に戻ってるとき、タイミング良く電話がかかってきてね、『四国来てるからー』って、会いにきたことがあったのよね、ずいぶん前だけど。
四国なんかに縁がないと思ってたから、てっきりOK美術館あたりを冷やかしに来たんだとばっかり思ってたんだけど、違ったのかー。
秋子
それ、いつのことか知らないけど、ついでにOK美術館にも行ってきたらしいこともあったわよ?
陶板技術がどうのこうの……って、しばらくうるさかったから。
カホリ
……にしても、移動距離が大きいわね、相変わらず。
秋子
いないなーと思ったら、ハワイや上海にいたこともあったわ。
連絡が取れないのも恐いからと思って、国際携帯を持たせてみたけど、持ち歩かなかったから意味がなかったし。
秋子
だからね、お祖母ちゃんのところっていう拠点が増えたのは、私としては、安心できたんだけど。
カホリ
そういやそのお祖母さんちの土地建物って、どうなんの?
お祖母さん他に身寄りがなかったんでしょ?
秋子
遺言書うんぬん以前に母は一人っ子だったし、法律上でも私しかいないのよ、相続人が。
祖母ひとりになって手入れできなくなった畑なんかも含めて、そこそこ広かったりするのよねぇ。山もいくつかあるし。
カホリ
……お祖母さんちって、もしかして豪農なんじゃ……?
秋子
山と言っても、ミカン山なんだけどね。
畑や山は入植したいって人がいれば貸すとか、会社の農業研修に使ってもいいかもとか考えているけど、家は残しておこうと思ってるの。
秋子
そうね。……貴ちゃんがふらりと行って滞在できる場所があったらいいかなって思って。
秋子
どうとでも言ってちょうだい。甘いのは重々分かってるんだから。
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○秋子の祖母の家の前庭。 香穂里
秋子の祖母の家の前庭。
いわゆる田舎の旧い農家造りの家。
すでに茅葺きではないが、茅葺き屋根の上にアルミ製の屋根カバーが取り付けてある様式の家である。
山を裾を切り開いて少し小高くした敷地内の家は大きく、前庭は農作業場も兼ねているために広い。
広いが無駄な装飾のための木は一切植えられていず、大きく低い梅の木が2本(実を取るための木)、枇杷の木が1本、そして裏手にある厠の外壁沿いに無花果の木が1本あるのみ。
母屋の横手には納屋と大きめの鶏小屋。鶏はすでにすべて近家に譲られて一羽もいない。
主のいなくなった家は、元がきちんと手入れされていたため荒れてはないが、しかし閑散とした乾いた空気が漂っている。
枇杷の木の下に駐めたトラックに背を預けて、カホリがタバコを燻らせている。
カホリ
……いいトコじゃないのー……。
(煙をぷー、と空に向かって吹き出す)
近所に行っていた秋子が戻ってくる。
カホリ
ちょうど終わったところだし? (吸い殻を携帯灰皿にねじ入れる)
……で? どうだった?
秋子
隣の小母さんにもそう言われたから、1本もらってきたの。
秋子
ええ、そう。
当座の管理をお願いしただけだったし。
カホリ
ふーん(気のない返事)
ウチの実家もたいがい田舎だけど、ココには負けるわね。……隣が遠すぎ。
秋子
まだこの家は近い方なのよ。
ありがたいことに村長さん宅だしね、お隣。
カホリ
それはそれは……。
ああ、だから管理を頼んだわけね。
秋子
ええ。公明正大と人徳で村長を何十年もやってるお宅だもの(口角を上げる)
カホリ
田舎も都会も、恐いわよね。恐い部分が違うけど。
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カホリ
ちょっと気圧されちゃってね。……うっかり足を踏み入れると、山爺が出てきそうだな……って。
カホリ
……バケモノよ。妖怪……って言った方が通りがいいかしら?
カホリ
いーわよ。どうせ私のキャラじゃないんだから。
秋子
……ご、ごめ……(くすくす笑いが止まらない)
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秋子
(玄関の雨戸を解錠して開ける)……ガスはともかく、電気はまだ通してるの。
カホリ
……(中を覗きながら)あんがい埃っぽくはないのね。
秋子
まぁ、4日前までは人がいたからね。あらかた掃除して帰ったし。
カホリ
秋になったからってこの暑さじゃ、丸1日も締め切っちゃってたら、
中が煮えてるんじゃないかと思ってたわ。
カホリ
なるほど。……て、さすがにガンタがいたって気配はないわね。
カホリ
ガンタが来るまでここで張っておくワケじゃないわよね。
秋子
それはないけど……。今日は泊まろうかな、と思ってるけど?
秋子
イヤ? 食事とかお風呂は車で1時間も走れば何とかなるわよ?
食料品も一応買い込んであるけど?
秋子
明日中までに現れなければ、ココにライブカメラ仕掛けようかなって。
秋子
ええ。必要だったから、とうに引いてるわ。電波状況悪い土地だから、もともと有線引いてあったし。
ついでに全村全戸完備になってるわよ?
カホリ
……たまにあんたがすごく恐くなることがあるわ。
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○祖母宅の納屋。 秋子、香穂里
カホリ
……もしかしてと思ったんだけどねぇ……。
そっちもどう?
秋子
……誰か入った形跡はないわねー。……いや……あった。
秋子
ここ(指さした先には、●●が藁に埋もれて落ちている)
カホリ
(覗きこんで)あららー。めずらしー。あいつがこんなポカするなんて。
秋子
自分の身のことに構う余裕がなくなってるってことよね。
秋子
そうじゃない? 最近夜は冷え込んでいるもの。
秋子
あんまりそういうことに感心しないでほしいな。
カホリ
……じゃ、『命根性だけはキタナい』(笑う)
カホリ
え? なになに? 思い当たるトコでも思い出した?
○祖母宅、鶏小屋
秋子、納屋を出て鶏小屋へ。
何羽もいたであろうニワトリたちは、すでに隣家等に譲られて1羽もいない。
秋子
(鶏小屋の戸に手をかける。鶏がいないために鍵がかかっていない)
秋子、鶏小屋の中に入り、入ってすぐの後方壁の一部に取り付く。
【補足:鶏小屋の構造】
コンクリートブロックの土台部分が2段半(見える部分)。
一番下のブロックの半分は地面に埋まっている。
蛇足を付け加えると、地面の下には実は、鉄骨補強したブロックが5段ほど、ぐるり長方形に入れられていて、
外からキツネや犬やイタチなどが下を掘って中に侵入できないように、施工してある。
間口は3間(約5.4m)、外観奥行きは9尺(約3m)、内部の奥行きは1間(1.8m)。
外部は南を真ん中にして三方(東・南・西)は開口部で金網が張ってあり、北向きは壁。
中には1間四角の部屋が三つあり、各部屋は金網と金網扉で仕切られている。
天井はなく、ダイレクトに屋根。内部の上方には自然木を利用した止まり木が何本も渡してある。梁もあったりする。
中の金網仕切は上部には存在せず、天井のない屋根裏部分からであれば、鶏たちは自由にどの部屋にでも行ける構造。
基本的に、成長した鶏たちの、夜眠るためだけの小屋と言って差し支えない。卵を産むのもこの小屋の中で。
朝、扉を開ければ鶏たちは勝手に外に出て行く。エサは小屋の中ではなく、前庭でやる。
小屋の東面に金網状の扉。入ってすぐの後ろ壁の下方に、人がひとり、かなり屈み込まないと入れない。
外からは見えにくいフタがある。フタの形は一枚板で、コの字の開口部を下に向けたような形(Πとか┌┐とか…)開口部は大きくない。鶏は入れても犬は入れない。イタチは簡単に潜(くぐ)る。人は……そもそもそんなに小さくはない。子供すらもくぐり抜けられない。
秋子が開けたのはその部分である。
秋子
いえ。「やっぱり」…に続く言葉は「簡単に開く」よ。
秋子
人間は滅多に入らないから。外さない蓋だしね。
秋子
ええ、そう仕付ける時もあるし、教えなくても古い鶏の真似をして入る子もいるわよ。
秋子
産んだ玉子は受け棚に落ちて、コロコロと……(手振りでその様子を表現する)
カホリ
ああ、なるほど。採卵鶏舎のミニチュア版なのか。
秋子
そうそう。裏の蓋を開けたら、そこに玉子があるって仕組みなの。
カホリの実家にもなかった?
カホリ
なかった。……そもそもウチはニワトリを飼ってなかったし。
ウチにいたのは、アヒルとヤギくらいよ。
カホリ
そーかな? タマゴと乳取るだけで、他はこれといってなにもさせてないし。
アヒルなんて、ニワトリと違って毎日は玉子産まないもの。
秋子
(にこ、と笑い)そうでもないのよ。野山を駆け回る方が好きだしね、習い事とかよりも。
秋子
あれは単なる趣味なの。持ってると安心するっていうか。
秋子、蓋を開けて、にじり口状態で中に入ろうとする。
秋子
大きくしておくと、不必要なものがいろいろ入ってくるからね。
できるだけ、雌鶏が安心して卵を産めるように配慮してあるらしいわ、祖母曰く。
中はそんなに狭くないのよ? 立って作業できる広さはあるし。
ときどき掃除したり、壊れたところを修理できたらいいって考えなの。……祖父が作ったんだって。
カホリ
合理的ねぇ(自分の実家を思い浮かべて苦笑する)
秋子
(振り返り)悪いけど、ここで待ってて。(足元を指さす)
秋子
ええ、たぶん引っ張り出してもらわないといけないと思うから。
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○玉子部屋の中
中は薄暗い。電灯はあるが、すでに電気を止めているので使えない。
秋子は、左手は壁・右手は産床棚に手をかけながら、そろりと奥へ奥へ進んでいく。
一番奥の壁際に、本来はあるはずのない小山の影。
正体は案の定、貴子。
秋子の進行方向に正面対峙して、地面に胡座している。
壁に寄りかかり、ぴくりとも動かない。前髪の間から秋子を見ているが、生気はない。
秋子、貴子に近づきはするが、半間(約90cm)ほど手前で止まってそこに座る。
同じように胡座。こちらはぴんと背筋を伸ばし、射すくめるような視線で相手と対峙する。
○鶏舎・玉子部屋の外・入口
壁越しに中の様子をうかがっていたと思われるカホリが、壁を背に付けてズズズ…と地面に座り込む。
ポケットからタバコを取り出して火を付ける。
吐き出した紫煙がさぁっと流れていくので、風があるのだとわかる。
○鶏舎の外
アブラゼミが鳴いている。
○玉子部屋の中
外の蝉の声が聞こえている。
相変わらず薄暗い中で、秋子と貴子は対峙している。
貴子の頭がぐらり、と右肩の方に動いた。
それでも秋子は動かない。
貴子の視線が秋子から外れてさまよい、また秋子に戻る。
秋子
私に謝ることじゃないでしょう?(あくまでも冷静に)
秋子、ゆっくり立ち上がると、貴子に背を向けて玉子部屋の入り口の方へ歩いていく。
足が痺れたのか、来たときよりも壁や棚で体を支えつつ、ゆっくりと歩いている。
○玉子部屋入り口
壁にもたれかかっていたカホリは、秋子の声でがばっと壁から背を離す。
秋子
(にじり口から出てきながら、同じく小声で。以下指示があるまで同)いいえ、まだよ。
カホリ
(秋子に手を貸しながら)ヤツは? 一緒じゃないの?
秋子
(出てしまってから)手強いわ。……仕方ないけど。
カホリ
おやま。
ちょっとキツい声が聞こえてたから、無理矢理引っ張り出すのかと思ったんだけど?
秋子
(鶏舎から出ながら)そうそういつも甘い顔はしてられないわよ。
カホリ
……(肩をすくめて、苦笑する)
(鶏舎から出て、秋子と並んで歩く。音量を元に戻し)
で? これからどうすんの?
秋子
(トラックの方に向かいながら)
場合によっては、長期戦になるかもね。
……でも飲まず食わずっぽかったから、早々にギブアップしてくるかもしれないけど。
秋子
本気で死にそうになったら、鶏小屋壊して引きずり出すわよ。
……重機借りて来とこうかしらね。ちっちゃいのを持ってるお宅があるから。
秋子
果樹を作ってると、どうしても必要になってくるのよ。
秋子
大丈夫、私が運転できるから。免許も持ってるわよ。
秋子
『こんなこともあろうかと思って』ね(自嘲気味に笑う)(※1)
(※1 秋子は極端な資格マニア。
実務が要らない資格は何でも持っている。
実務が必要なものもいくつか持っている。
運転免許は「牽引」「大特」まで所有。二種はさすがに持っていない。
他にも船舶、無翼機、セスナ等々。
対する貴子は運転免許の「限定中型(つまりは普通一種)」しか持っていない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○夜 鶏小屋
秋子が懐中電灯を手に玉子部屋の入り口から中を覗きこんでいる。
カホリはその後ろで秋子の様子を見ている。
体半分入って中を照らす。奥には貴子。
昼と同じ姿勢のまま、右の壁側に倒れてもたれかかっている。
秋子
(いったん外に体を出し、カホリに向かって肩をすくめる)
向こうの壁を、剥ぎましょう。
ふたり、鶏小屋を出る。
表に立てかけた「山芋掘りスコップ」をカホリが、備中三又鍬を秋子がを手にして、
貴子が凭れている壁側に回る。
カホリ
(手袋をはめつつ)…で? どのあたりにいるの?
秋子
(壁を懐中電灯で照らして)…このあたり、ね。
こんな感じで倒れてる(懐中電灯の光が貴子の姿勢を模して動く)
秋子、懐中電灯で壁一面をなにやら調べる。
照らされた部分は板の継ぎ目で、スコップの刃が入りそうな程度浮き上がっている。
カホリ
(スコップを構えつつ秋子に向かって)……やっちゃっていいのね?
秋子
ええ。あとで使うなら、修理すればいいことだもの。
カホリ
りょーかい。
……っ(継ぎ目に刃を差し込んで力を込める)……んんー……。
………秋ちゃん。お願い。
カホリ
(懐中電灯を受け取って、スコップを支えつつ、目標地点を照らしながら)間違って叩かないでね。
秋子、「せいや!」と小さく声を上げて、
三又鍬の背の部分で、山芋スコップの尻(柄端)を叩く。
カァン…!と甲高い音が響いて裏の山に吸い込まれていく。
スコップは見事継ぎ目に深く埋まる。
秋子
私もよ。危ないと判断したら、逃げるだろうって思ってたけど、万が一ってこともあるし。
カホリ
そのあたりはまだ大丈夫よ。誰かさんたちと違って、毎日体動かしているもの。
カホリ
さて、ここからが本番ね。(壁に刺さったスコップに取り付く)
私ひとりで無理だったら、手伝ってよ?
カホリ、肩越しに秋子を見て笑い、スコップを持った腕に力を込める。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○祖母邸・風呂屋・外
貴子を背負ったカホリが立っている。
カホリ
(独白)軽い……。
(呟く)まったく、ばかったれ小僧なんだから。
風呂屋の影から秋子が出てくる。
秋子
火、点け直したわ。
ごめんなさい、待たせて。重かったでしょ?
カホリ
大丈夫。それよりも秋ちゃん。この子、普段ちゃんと食べてる?
カホリ
軽すぎるわ。いくらパーツがひとつなくなってるからって、この軽さはないんじゃない?
秋子
家族と食べるときは以前どおりに食べてるけど、最近あずまやに籠もることが多いから。
秋子
差し入れてても、朝見たらそのままってことも多くて。
でも籠もっているときに覗くとすごく嫌がるから。……知ってるでしょ?
秋子
……お風呂、入れなきゃ(風呂屋の扉を開ける)※2
カホリ
このままじゃ、臭くて上げられないものね(苦笑しながら風呂屋に入る)
※2) 風呂屋…家の外に建てられた風呂場のこと。
この家はすでにガスあるいは灯油式のボイラーを使って給湯していたが、家人がいなくなって止めたため、今日は仕方がなく以前のように薪を使って湯を沸かしたようだ。ちなみに水はまだ手動の汲み上げポンプをつけた井戸があり、そこからとある方法を使って給水した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○祖母宅・とある一室。
3組の布団がくっつけて並べられている。その真ん中に貴子。
貴子の左側にはカホリ、右側には秋子が寝るようだ。
秋子はすでに布団の上に座っている。
ふたりは着替えてはいるが、そのままいつでも出かけられるような服装である。
カホリ
(布団の脇に立って)……まったく、なんだか腹が立つわ。
ぐーすか寝やがって。
秋子
「ぐーすか寝」てるワケじゃないと思うけど?(苦笑する)
秋子
ええ、そう、“全部”ね。スッパじゃいくら貴ちゃんでも逃げられないでしょ?
カホリ
ある意味、私よりも深くつき合ってるんだもんねぇ。感心するわね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○次の日、夜が明けきらない頃。 祖母宅・とある一室。
秋子が目覚める。
秋子
……ん。まず……眠り込んじゃ……(左手の貴子を見る)
布団の真ん中はもぬけの殻。
秋子
……マジか?
カホリ、起きて! 逃げられたっっ!!
カホリ
(秋子の剣幕に目が覚めて飛び起きる。もぬけの殻な布団を見て渋ーい顔をする)……おーい……。だぁれ? スッパだったら逃げられないとか言ってた人は?
秋子
(ばつが悪い顔)……ごめん。読みが浅かった。
秋子
そうね(立ち上がる)。……まさか上掛けを使うなんて……。
秋子
はいはい(カホリを追いかけようとして)……ちょっと待った。
秋子が指さした先には、大きな四角い座卓。
その上には来がけに買い込んだモノモノらが置いてあって、
食料の入った袋もあったのだが、
その袋の口が無造作に開けられて、中身が適当に漁られた跡がある。
カホリ
ええ、そうね。……だから、買ったんでしょ?
カホリ
罠に仕掛けるエサも、持って行かれちゃ意味がないわねぇ。
……ま、私も寝入っちゃって気が付かなかったんだから、皮肉言う資格はないんだけどね。
秋子
別にいいわよ? それがないと、カホリさんらしくないもの。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○祖母宅・玄関土間
土間に割れたスイカが落ちている。
一部が食い散らかされて、残骸も散乱している。
カホリ
食いもんのみならず、農家の土間をなんと心得るか、あの小僧はっっ!
カホリ
……(突っ込むトコはそこ? …という目で秋子を見る)
カホリ
(肩をすくめて)掃除してるから、行ってらっしゃいな。
カホリ
(苦笑して)あたしにゃ、今の小僧は手に負えないわ。
ヤツはあたしから逃げたけど、あたしもヤツから逃げたのよ。
そうやって長いあいだ、くっついたり離れたりしてるだけだもの、
あんたにはどうやっても敵わないのよ、秋ちゃん。
カホリ
時間かかりそうだったら、ご飯も作っておくわ。
あのばかったれ小僧が荒らしちゃってるから、ろくなモノができないと思うけど?
秋子
……裏の畑に、ナスとかオクラとか生えてるわよ、たしか。
カホリ
あら。……じゃ、畑と相談して、いただいてきましょうかね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○夜明け直前。
東の空がじわりと白みはじめた頃。
秋子が玄関から外に出る。
戸外の地面や草木が濡れており、寝ている間に雨が降ったのだと気がつく。
しかしすでに雲は東の空の一部を残して切れ、暗い空では星が瞬いている。
秋子、左右に視線を巡らせて貴子を捜す。家の敷地内、少ない植木が寄せ植えられている一角に、探し人はいる。
寝ているときに着ていた薄掛けを素肌に羽織って、しかし左腕はむき身のままで、手には食べかけの割れたスイカの大きなかけらを持っている。
植木の足元を飾っている庭石に座り、空を見上げている。その足元には水たまりがある。
秋子、貴子に近づいていく。
貴子、空を見上げたまま、前髪越しに秋子の方をぎょろりと見る。しかし攻撃性はない。
貴子
……ごめん(言いながら、視線は虚空を彷徨っている)
秋子
いいのよ。でも、今は謝ってほしいわけじゃないの。
貴子
(視線は空へと向かい)気持ちは、あんたを……って……
思ってる……のに。
秋子
分かってるわ。だから、怒ってない。それについては。
貴子
うん。それと、これ見てたら……(足元の水たまりを見下ろす)
貴子
(頷く)結局は……表面っつらだけなんだ。
この…水たまりみたいに。
表面に映った空のように、なろうとしてるだけの。
いくらきれいに星を映していたって、底には泥が溜まってる。
それだけだ……。
……あんたの方が、ずっと、苦しいのに。
どうしても……押さえられ……ない……ん……だ。
貴子の語尾が引きずるような音になり、それはやがて喘ぐような嗚咽に変わる。
秋子は何も言わず、貴子のそばに立ったまま。
そして無表情のままにたたずんでいる。
だんだんと夜が明けてきて、水たまりに映った星々が消え始める。
もちろん空の星も。
秋子、朝焼けに彩られた空を見上げる。
秋子
今みたいな空が好き。
夜中に雨が降って、それから明けた空って、そうじゃない朝の空よりも澄んでるわ。
秋子
(足元の水たまりに視線を落とす)あなたは自分を、この水たまりに例えるけれど、
どんな人でも、水たまりのようだと私は思うのだけど、どうかしら?
秋子
どれだけ着飾っていたり美しい心を持っていたとしても、人は必ず泥のような感情を持ってる。
そう思うのだけど、どう?
秋子
泣けないのよ、私。お祖母ちゃん……チヨコさん、死んじゃったのに。
父や兄が亡くなったときも、母が亡くなった時ですら泣けなかったの。
だからね、流れていかないのよ。泥が。
私の中にある、泥が。
秋子
泣くことができたら、涙が出てくれたら、この朝のように、きっと澄んでいられるのに。
だからね、私は嬉しいの。
あなたが泣いてくれて。私の分まで、泣いてくれて。
貴子はうつむいたまま。
やや伸び気味の前髪で表情は見えないが、その頬に涙が流れ落ちる。
秋子
あなたは、あなたのままでいて。それでいいから。
……じゃないと、あなた自身が死んでしまうから。
貴子、びくりと肩を震わせる。
ぐしゃぐしゃに泣きじゃくった顔を上げて、秋子を見る。
貴子
……岳が……(秋子にすがりつき、吐き出すように)
……岳が死んで、チヨコさんも……死……
貴子
(秋子を睨みつけ、噛みつくように)……次は……きっと……じ…
秋子
貴子!! そんなことはない! ないからっっ!! (貴子を強く抱きしめる)
外の騒ぎに心配したカホリが玄関から出てきて、ふたりをみている。
秋子
あんたがどう思おうと、あんたの周りがそうさせないから。
貴子
……(力尽きたように、ずるずると地面に座り込む。足元の水たまりが割れる)
……私は……馬鹿だった……。
秋子
貴……(貴子を抱いたまま、一緒に地面に座り込む)
秋子、貴子をぎゅっと、さらに強く抱きしめる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○秋子の祖母の家 居間。
丸いちゃぶ台を3人が着いている。貴子はすでに着衣。
秋子は貴子の右手側に寄り添って、カホリは貴子のほぼ対角線上に。
ちゃぶ台の上には、ナスのみそ汁、玉子焼き、トマト(櫛切り)、
キュウリの塩もみ、オクラを茹でたものらが並んでいる。
カホリ、鍋から飯椀へと飯をよそっている。
カホリ
(貴子の前に飯椀をどすんと置いて)ほれ、食え!
カホリ
あたしがあんたにご飯を作ってやるなんて、ここ数年なかったことだからね。
感謝して食べなさいよ。
貴子
(もっそりと左手で箸を取りあげる)……いただきます。
カホリ
(貴子の様子を見つつ、秋子と自分の前にも飯椀を置く)
秋子
(貴子が食べ始めたのを確かめるように見てから)いただきます。
……味噌、どこにあったの?
カホリ
農家にはね、あんたらが知らなくて当たり前の収納場所があるのよ。
さすがに糠床は拗ねてたから、漬け物は無理だったけどね。
カホリ
ええ、そう。割ってみたら充分大丈夫だったから。ちゃんと保存してれば、常温で2週間近く保つモノだから。本来冷蔵庫に入れるモノではないのよ。(「お分かり?」という風に首をかしげる)
カホリ
存外とは何よ? 充分家庭的よ。これでも一児の母なんだからね。
三人も産んだあんたには敵わないけど。
秋子
お母さん歴では、間違いなく私よりも長いわね。
そもそも私は子供を産んだだけで、実際に育ててるのは貴ちゃんのようなものだもの。
(ちらりと貴子を見る)
カホリ
ちょっとガンタ。時化(しけ)たツラしてご飯食べないでよ。こっちまで不味くなるわ。
……どう?
貴子
(もっさりと食べながら)……美味い。
味が、濃い。
カホリ
そらそーよ。ここのお祖母さんが作ったモノたちだもの。料ったのはあたしだけどね。
秋子
カホリがね、裏の畑と相談して、貰ってきたんだって。
カホリ
畑とね、木に、「どれが美味しい?」「どれをもいで良い?」って御機嫌伺いすんのよ。
良い畑だとちゃんと応えてくれんの「じゃ、これ持っていきなさい」ってね。
カホリ
ここの畑はすごく素敵。大らかだし、優しいわ。お祖母さんがよほど手をかけていたんでしょうね。
こんなこと言ってもあんたは信じないでしょうけどね、畑全体がね、心配してんのよ、あんたのことを。
お祖母さん、秋ちゃんよりもあんたに食べさせたくて、野菜を作ってたんじゃない?
カホリ
あんたたちみたいに、生まれたときから町中に住んでる人間には分からないかもしれないけどね、土だって野菜だって、あたしたちにいろいろと語りかけてくれてんのよ。
特に人の手で充分に慈しまれたものたちはね。人間がすごく好きなの。
ガンタ。あんたが今食べてるみそ汁だって、
ナスが「みそ汁にしろ。じゃないと体を冷やす」……って言ったからみそ汁になったのよ。
秋・貴
……(なんだかよく分からない、という顔。貴子に至っては「大丈夫か、こいつ」という表情)
カホリ
あんたたちが信じようが信じまいが、どっちでも構わないけどね。
お祖母さんが手によりをかけて作った子たちだから、味も濃いし美味しいのよ。
カホリ
そんなものは、ほとんどないわね。
モノが良いんだから、私はそれを壊さないように気を配っただけ。
切るにしても火を通すにしても。
(ちゃぶ台の向こうから貴子を覗きこんで)……美味いか? 小僧。
カホリ
(頷いて)なら、いい。いっぱい食え(しかめっ面で言うが、すぐに目がやさしく笑う)
秋子
(ホッとした表情でふたりを見比べて、みそ汁を飲む)……美味しい。ほっとする味だわ。
カホリ
……日本人よねぇ、ホント(しみじみ言って、食事を再開する)
秋子
……ちょっと待ってね(立ち上がって、台所に行く)
カホリ
……ったく、いつまでもガキよね、あんたは。
秋子
(戻ってきて)なあに? ケンカしないで頂戴よ、ふたりとも。
カホリ
あら、失礼ね。……てか おめー、呼び捨てか、コラ。
秋子
はい。スプーン(竹製のあまり大きくないそれを差し出す)
貴子
ありがと(箸を置いて受け取り、飯を器用にすくってがすがす食べ始める)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○秋子の祖母の家・前庭
午前もあと2時間足らずで終わろうかとしている時間。
2tのトラックのそばに3人。
秋子とカホリは荷物をまとめて積み込んでいる(自分たちの着替えが入ったカバン以外に大きめのコンビニ袋3個程度)
貴子はぼーっと祖母の家を見ている。瞳が遠い。
貴子、秋子の方に振り返るも、また家を仰ぎ見る。
秋子、貴子のそばに寄る。
秋子
また、いつでも来られるわ。
この家は私が相続するから、いつでも来ていいのよ。あなたも。
秋子
いい使い道はないかしらね? 単に別荘でもいいのだけど。
あなたのこっちでのアトリエでもいいし。
秋子
考えておいて。こういうのを考えるのは、あなたの方が面白いから。
トラックのエンジンがかかる。運転席からカホリがふたりに声をかける。
貴子と秋子、トラックのそばへ。
秋子は貴子を先に乗せようと促すが、貴子はぐずぐずして乗ろうとしない。
秋子
日頃の行いが悪いからよ(言って、トラックに乗り込む)
貴子、むっつりと機嫌悪くトラックに乗る。
カホリがあきれ顔で見ている。
カホリ
もうね、あんたたちの関係をとやかくは言わないわ(鼻白みつつ呆れつつ言う)
カホリ
甘える方も甘える方だし、甘やかす方も甘やかす方だわ……って思ってるだけ。
妬くとか妬かないとか、そんなモン、とっくの昔に生ゴミ処理機(コンポスト)に放り込んじゃったわ。
カホリ
ウチの庭の芝生の肥料になってるんじゃない? 芝生の係は太朗だし。
カホリ
んー? 元気よー。今日も半ケツで踊り狂ってるんじゃない? どっかの路上で。
ではお客さまたち、シートベルトはきちんと締めて下さいねぇ。
カホリ、車を発進させる。
車は来た道を戻っていく。山あいに流れる川に沿って道は続く。
山肌に生える木々の葉は深緑で、棚田はそれよりも淡くあかるい緑に彩られている。
日差しはまだまだ容赦ない。
空は明け方近くに雨が降ったとは思えないくらいの濃青で、
目に痛いほど白い雲が、ありこちに羊だまりを作っている。
移りゆく車窓の風景を、貴子は暗い目でじっと見つめている。
秋子とカホリも言葉少なく、時折貴子の様子を見ている。
特に信号が赤で停車した時には、かならず貴子に視線をやるが、
見張られている当の貴子は、開けた窓に肘をつき、さらにその腕で頬杖をついてほとんど動かない。
カホリ
(車を運転しながら)……暑いわねー。ホントに秋なの? ……って感じだわー。
カホリ
私の感覚だと、この時期は本来なら冬なのよー。
秋子
……ああ。そうね。メルボルン(あっち)は春になろうとしている頃か。
カホリ
そーなのよ。だから余計にこの暑さは堪(こた)えるわー。
秋子
その先に道の駅があるから、ちょっと休憩しましょう。
車はとある道の駅の駐車場に。
秋子
ここね、ちょっとした名物があるのだけど。……貴ちゃん、お腹空いてる?
貴子、そっぽを向いたまま首を横に振る。
秋子とカホリ、チラっと目を合わせる。
貴子
待ってるから、食べてくればいい。
私につき合う必要はない。……逃げないし。
秋子
(大丈夫よ、とカホリに頷く)
(貴子に)じゃ、待っててね。
カホリ
(内心びっくりしながら、貴子の方に振り向く)な、なに?
カホリ
……スイカ食い散らかしたクセに、今度はアイス? お腹壊すわよ?
カホリ、肩をすくめると、踵(きびす)を返して秋子の元へ。
秋子は少し離れたところで、カホリを待っている。
たぶんふたりのやりとりを見ていたと思われる。
カホリが追いつくと、秋子はカホリが近づいてきた速度で歩き始める。
秋子
そうでしょうね。ここのソフトクリームが大好きだもの。
カホリ
ガンタってさ、好きじゃない割にはあんがい甘いものを食べるわよね。
カホリ
基本的には糖分が切れると欲しがるって感じだけどね。
秋子
だから困ってるのよ。制作に入ると食事が偏るから。
ふたり、道の駅の建物に入る。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○道の駅 内部の食堂
秋子とカホリが1つのテーブルに差し向かいで座っている。
ふたりの前には同じメニュー「山菜天ぷらうどん」
素うどん、炊き込み飯、天ぷらの盛り合わせ、香の物がトレーの上に整然と並んでいる。
カホリ
ところでさーぁ、面白いわよねぇ、あんたん家(ち)
カホリ
ガンタも言うんだけどねぇ、ヤツが私に作ってくれたときに。
秋子
……いつの間にか、だったわね。私が貴ちゃんの家に転がり込んで、さほどしない頃には もう言ってたような気がするわ。
カホリ
どっちから言い出したとかってわかんないの?
秋子
だって、ウチの実家はそういうことを言う習慣なんてなかったもの。
カホリ
ふーん。……でも、ガンタも言わなかったわよ、それ以前。
気が付いたの、一度目のよりを戻したあとのことだったもの。
カホリ
ええ、ウチの太朗が生まれたあとだったと思うわ。
秋子
そのころには、もう当たり前みたいに言ってたわね。
秋子
作った時は言うわね。作ってもらった方がまず先に『いただきます』を言うから、その流れで。
カホリ
ううん。悪いことじゃないわよね。どっちかというと、好きよ。
我が家でも言うようになっちゃったもの。
カホリ
太朗がね。言うのよ。……ガンタが言うのを憶えちゃったんでしょうねえ。
カホリ
太朗さー、ガンタのことを父親って思ってるからねー。
もちろんチビの頃の話だけど?
カホリ
まぁね(にひひ、と笑う)
……実際、どんな男だったかも忘れたわぁ。
カホリ
ええ、そう。自棄を起こしてロクでもないことばっかりやってたからね、、当時は。
カホリ
んー。天ぷらが絶品ねぇ。旬のものに勝る食べ物はないわね。
カホリ
今はもうインターネットがどこにでもあるし、わざわざ都会に住む必要もないもの。
こういう生活がしたいのよ、私は。
カホリ
結局さ、いくらあがいたって、血は求めてるのよ。
家業がイヤでこっちの道に進んだのにねぇ。
カホリ
ホントに、『なんてこった』……だわ。
……ごちそうさま。
カホリ
(立ちながら)留守番っ子にアイス買ってやんなきゃ。
秋子
(おなじく立ちながら)……あなたも、“小僧”には充分甘いわよ。
カホリ、秋子を一瞥して、肩をすくめる。
○道の駅駐車場 トラック
トラックの助手席で、窓を開けてだらりとシートに身を沈めている貴子がいる。
日差しが暑く、煮えている。体感気温は摂氏30度近い。
一緒に建物に入らなかったことをやや後悔しているが、あとの祭りである。
着ているオーバーオールのポケットをまさぐると、硬貨が2枚出てくる。
てのひらに乗せたそれらの総額は105円。
飲み物が買えないだろうかと建物に寄り添って立っている飲料自販機の腹のところには、
大きく『110円』とポップが貼ってあって、ギリギリ買えない。
貴子の表情はほとんど変わらないが、内心では間違いなく「しょんもり」している。
「がっかり」ではなく「しょんもり」である。似ているようで違う。
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トラックに秋子とカホリが近づいてくる。
貴子はそれに気がついて、なにもなかったように小銭をポケットに入れる。
カホリ
ガーンタ。ほれ、お土産。……お利口さんにしてた?(手提げビニール袋を捧げ持つ)
カホリ
(ひょい、と手を引っ込めて)……こういう時って、どう言うんだったっけ?
カホリの言葉に、貴子は一瞬「ムッ」っとクチをへの字にして、秋子とちらりと見る。
秋子はにこにこと笑っているのみ。
貴子、袋の中からガサガサとアイスを取り出す。
出て来たのはプラスチック容器にがっちり入った、ソフトクリーム型のバニラアイス。その三角錐になっているコーンの部分を両膝に挟んで、器用に上部の蓋を開ける。
貴子がアイスクリームと格闘している間に、運転席側から秋子とカホリが車に乗り込んでくる。
秋子
(貴子の横に放り出してあるビニール袋を取り上げてそこに座り、貴子に向かって)蓋、もらうわよ?(手を差し出す)
貴子
(もりもりアイスを食べていたのを中断し、アイスを口に咥えた状態で、蓋を自分の膝から取り上げて、秋子に渡す)
秋子
あ、ちょっと待って。貴ちゃん、シートベルト。
秋子
(たたみかける)ダメよ。お巡りさんに見つかったら、カホリに迷惑がかかるでしょ。
貴子
むー。(アイスを口に咥えたまま、シートベルトを探す)
秋子
横着しないの! (貴子の口から、アイスを引っこ抜く)
カホリ
(呆れて脱力しながら)……ちょっとアンタたち。いい加減にしてちょうだい。
貴子はシートベルトを引っ張り出し、体を捻って金具をホルダーへ
入れようとする。
秋子はその金具を空いている方の手で受け取って、
貴子にアイスを差し出す。
貴子はアイスを秋子の手から取って、すぐに食べ始める。
秋子は手早くベルト金具をホルダーに入れて、
自分もシートベルトをする。
その間、カホリはあきれ顔でふたりの様子を見ている。
カホリ
(あきれ顔も最高潮)……しゅっぱつしんこー……。
トラックはまた走り出す。
カホリ
いいえー、食べたわよー。秋ちゃんと1コを分け合って
(にやり、と笑う)
カホリ
美味しいわよねぇ、そのアイス。アンタが食べたがるだけあるわー。
秋子
(苦笑して)……苛めないのよ、カホリ。
(貴子に)喉が渇いていたんでしょ? 素直に建物に入ってきたら良かったのに。
さらに山あいの3桁国道を、標高の低いところへと下っていく。
ひとつ、ふたつと集落を抜ける。
カホリ
田んぼ? ……ああ。早稲米(わせまい)作ってるんじゃない?
カホリ
ええ。宮崎のほうが有名だと思うけど。もうぼちぼち収穫できるんだと思う。
もしかしたら、しちゃってるところもあるかもね。
貴子
赤いのとか黒いのとか送ってきてたね、チヨコさんが。
貴子
うん。炊くと色が変わる。はじめはびっくりした。
カホリ
粳(うるち)、糯(モチ)どっちもあるわよ、両方とも。水稲(すいとう)も陸稲(りくとう)も。
カホリ
ハモらないでよ、もー(苦笑する)……というか、意味分かった?
カホリ
(平然と)で、しょうね。
粳はフツーにご飯で食べるヤツ。糯は言わずもがなモチ米。
水稲は普通に田んぼに生えてるヤツ。陸稲は、水田じゃない田んぼで作るヤツよ。
『おかぼ』とも言うわね。
秋子
ああ、『おかぼ』なら分かるわ。言葉だけ。そっか陸稲って書くのね。
カホリ
ええそう。陸稲は私も見たことはないわよ。言葉として知ってるだけ。
小僧は知ってるかしら?
カホリ
そりゃぁ、アンタを苛めてるんだもの。楽しくて仕方ないわよ
(笑う)
貴子、再びむっつりと窓の外に目をやる。
車は木々が生い茂った山の中。道か橋か分からないくらいの小さな橋にさしかかる。
橋長が4mもない橋を抜けた瞬間、貴子の視界に何かが飛びこんでくる。
貴子
いいから、停めて。
戻る。……さっきの、橋。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
トラックがやや高い音を発して停まる。
ほどなくして貴子がトラックから降りてきて、今走った道を歩いて戻り始める。
秋子はそのあとを追い、カホリはトラックを道の脇に停め直すべく、車を動かす。
目的の場所へ近づくにつれて、貴子の足が速くなる。しかし走りはしない。
秋子も同じ歩調でついていく。
やがて貴子の歩みが遅くなり、橋の欄干の脇にある藪状の木の陰から何かが出てきたのを認めて、その場で止まる。
見れば確かに子供(少年)がいる。体がやたらと細く日に焼けている。
髪も短く刈り込んでいて、まるで痩せた猿のようにも見える。
しかし背が高い。秋子や貴子よりも少し低いくらいか。
上半身は裸だが、膝丈ちかいだぼついたパンツを身につけている。
少年は、彼の膝丈もない高さの欄干にひょいっと乗ると、ためらいもなく欄干向こうにその身を投げる。
ややあって鈍い水音が周囲に響き、そしてやや甲高い歓声が、彼が吸い込まれた方から聞こえる。
貴子はすたすたと橋に近づいて欄干のところまでいき、下を見下ろす。
秋子も貴子に追いついて、貴子の見ているほうを見る。
視界の先には川があり、そこで子供たちが数名川遊びをしている。
子供はすべて小学3~6年生くらいの少年たちである。
川は、橋の下あたりでは広くなっていて、水の色からかなりの水深があるところだとわかる。
子供たちは上半身裸。一様に浅黒く焼けている。
川の脇は岩場になっていて、先ほど飛びこんだ少年はすでに水から岩にあがっている。
水の中に使って立ち泳ぎしている者がいたり、岩の上でくつろいでいる者がいたり。
中には手製の銛のようなものを持っているものも数人いる。
少年のうちのひとりが、自分たちを見下ろす貴子と秋子に気がつく。
貴子
アタシらは通りがかっただけだよ。あんたらはー?
貴子
さっき飛びこんだのがいたけど、他の子もできるん?
少年1
できるでー。ここにおるのは、みんなそこから飛びこめるー。
少年3
ほんまじゃ。オレがやってみせちゃろうかー?
少年3
(岩から立ち上がって、こちらにやってきながら)
見物料取るきねぇ?
少年3
(秋子の前を横切りながら)コツさえ間違わんかったら、大丈夫ー。
……おばちゃんたち、どこの人なん?
少年は欄干に立ち、両手を広げる。後ろから見れば、十字架のようにも見えるだろう。
少年3
(下の仲間たちに)このおばちゃんたち、東京の人だってよー。
下にいる少年たちは、「そらカッコいいとこ見せなてー」と、少年3を囃し立てる。
少年3
(貴子たちを振り返って)よっく見ときぃよ。
……ぃよっしー!!
気合いを入れたかと思った瞬間、少年の体が空を飛ぶ。
重力に逆らわず、しかして綺麗な放物線を描いて、少年は水に吸い込まれていった。
着水した瞬間、少年は腕を頭の上に突き上げた姿勢になり、水はほとんどしぶきを上げない。
貴子はひゅー…と口を鳴らし、見ていた少年たちはやんやと喝采を上げる。
少年3
(水面に浮かび上がってカッパのように顔を出し)どうや!
貴子
(秋子を指差し)こっちのおねーさんが、涼しいか? って。
少年たちは、貴子の言葉にどっど笑い転げる。
トラックを駐めたカホリが貴子たちの元へと来る。
カホリ
(少年たちを見下ろして)あーら、ずいぶん涼しそうねぇ?
少年たちはさらにゲラゲラ笑っている。
「無理やろー」という声も聞こえる。
貴子の目が、にや、っと笑う。
秋子はそれを目ざとく見つける。
前触れなく、いきなり貴子が欄干を踏み越えて空へと舞う。
少年たちは降ってくる貴子を、秋子たちは小さくなっていく貴子を、唖然と見る。
どぼーん!! と盛大な音を立てて、貴子が水の中に消えた。
秋子とカホリは、その音で我に返って、欄干へと走り寄る。
少年たちは貴子の着水点を見つめている。
カホリ
……ちょっと、溺れたんじゃないでしょーねぇ?
少年1
お! こっちじゃ!!(やや離れたところを指さす)
果たして少年が指さした付近の水が盛り上がり、貴子が着水した時同様に
派手な水しぶきを上げて水面から顔を出す。
貴子
やーはははは!! きんもちいいーー!!(器用に立ち泳ぎする)
貴子
泳ぎは得意なのだよ(わはわはと笑いたくっている)
少年たちは喝采を上げ、次々に水へと飛びこむ。
秋子
……はー……(力が抜けて、欄干にもたれかかる)
カホリ
……アレ引き上げるの、ちょっとイヤだわぁ……(げんなりと言う)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○トラックの外
運転席側のドア外で、秋子が携帯でどこぞに電話をかけている。
秋子
もしもし。……東郷君? 私です。
……ええ、これから帰ります。……え? ええ、そう。貴ちゃんの体力がね……。
ええ。ええ。……わかりました。少しのんびりさせてもらうわ。
○トラックの中
貴子とカホリはトラックの中。
貴子は真ん中の席に座らせられて、タオルでぐるぐる巻きにされている。
躁状態にあるらしく、やたらと機嫌がいい。
カホリは助手席で、ぎゃーぎゃー喋りたくる貴子を適当にあしらいながら、
貴子の髪を拭いてやっている。あまりにうるさいので、ボコッと叩いたりもしている。
○トラックの外
中の喧噪が漏れ聞こえている。
秋子
……で、トラックなんだけど、空港で引き渡したらいいのかしら?
東郷
(声のみ)……いえ、それが大変申し訳ないのですが――
東郷
(同)大変申し訳ありません。あちらの空港に―――
秋子
……わかりました。そのくらいはぜんぜん大丈夫。
はい……はい。……じゃ、あっちに着き次第、また連絡します。
秋子、電話を切る。
そして、トラックの運転席に乗り込む。
中はやっぱり貴子がうるさい。
○トラックの中
カホリ
……で、これからどーすんの? 徳島?(貴子をベコっと叩く)
秋子
トラックをね、岡山に運ばなきゃいけなくなった。
秋子
岡山の系列工場に運べば、そこからヘリで空港に送ってくれて、そこから……
秋子
いえ、あなたを実家まで送るくらいの余裕はあるわよ。
カホリ
(貴子を指さして)コレ、ひとりで連れて帰るのは、ちょっとアレじゃない?
指さされた貴子は、躁状態になってうるさいだけでなく、
体力が切れているので、なんだかニョロニョロしている。
カホリ
(貴子に)……いいから、アンタはとっとと着替えなっっ!!
(秋子に)実家の用事は済んでるから。とっとと退散しないと、いろいろ言われて面倒なのよ。
飛行機、あんたんちのでしょ? 乗せてってよ(にっこり笑う)
秋子
……ま、いいけど。場合によっては……(貴子を見る。貴子は鼻歌を歌いながら着替えている)
チャーター便の手配をしようと思ってたから、(視線を戻す)
ひとりくらい増えてもどうってことないと思うわ。
カホリ
じゃ、決まりね。
……て、ガンタ、濡れた服をそこらへんに置くな!!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○瀬戸大橋 与島PA
秋子とカホリが疲れ切った顔でトラックの中に座っている。
秋子が運転席、カホリは真ん中。そして貴子は助手席。
貴子は相変わらず、気分だけは元気。
秋子
そーね。せめてもう少し収まってくれると助かるんだけど。
カホリ
まさか、この時期にこんなになるなんて思ってなかったわ。
カホリ
なかなか通行止めにならないのよねー、ココ。
外は強風が吹いている。
しかしギリギリ通行止めになる風速ではなく、橋は平常営業中である。
ゴォ…っと恐ろしい音がして、トラック全体が揺れる。
秋子
そうね。……せめて、荷台がカラじゃなかったら、もう少しなんとかなったのに。
ゴォゴォとトラックが風に吹かれて鳴り、揺れる。
カホリ
何度言ったら分かる! このトラックはマニュアルなの!!
アンタねー、ずーっと一速(ロー)で走るつもり?
貴子
合図するから、どっちかがギア変えてくれたら良……
カホリ
(たたみかける)そんなアクロバット、誰がするかっっ!!
秋子
それよりも、そんな体力ナシの状態で、ハンドルを取られないはずないでしょう!!
カホリ
そーよ。あんたと心中する気なんて、私たちはさらっさらないからねっっ!!!
貴子
(カホリを乗り越える勢いで)やなぎはらー。代われ代われー。
カホリ
(貴子を押さえつけて)コラ! 止めんかっっ!!
秋ちゃん、限界。限界っっ!!
秋子
(急いでエンジンをかける)分かった! ソレ、押さえててねっ。
トラックは軋んだ音を立てながら、急発進する。
そのまま岡山方面の高速道路上へ。
本線に入った途端、ゴォっと横風に襲われる。荷無しのため軽いトラックが、風に吹き流されて瞬時に隣車線の半分ほどへ横滑りする。
強風下、それでも瀬戸大橋には何台もの車が走っている。
その中に見えるは空(カラ)荷台の2トントラック。
風に流されてやや蛇行気味。
風の切れ間から、貴子の笑い声とカホリの怒声が流れてくる。
3人を載せたトラックは、本州方面へと遠ざかっていき……。