オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

あの桜並木の下で 小品集 時間外

貴子

貴子 本文

そして、Xデー。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
夜の明けるずいぶん前。寒い朝。
○“あずまや” 貴子のアトリエ。
室内灯を点けず、ちいさな、光量の少ない電気スタンドの明かりのみ。
明かりは貴子の手元だけを照らしていて、室内全体は薄暗い。
そんな中に貴子のシルエット。顔さえも見えない。
折りたたみのベッドを改良したイス(と家人の誰もが呼んでいる)に腰掛けて上体を起こし、左手に筆を握っている。
筆が動いているのはキャンバスの上。キャンバスは貴子の正面に。
漏れる明かりが、貴子の左横に置かれた小さな机の上の、油絵道具をぼんやりと浮かび上がらせている。
貴子
(シルエット。筆をキャンバスから離し)――よし……と。
(シルエットの頭が上がって、顔を上げたことがわかる。キャンバスを一通り眺めている)
もう……ない……な。

 

貴子、筆を置く。
深いため息を一つ。
一度目を瞑り、すぐまた開く。
座っていたイスの、やや倒した背もたれに体を預ける。
道具を置いている机の横に置かれた小机の上に小さな煙草盆があり、そこからタバコ缶を取る。
缶を右脇に挟んで蓋を取る。缶を煙草盆に戻し、缶の中からタバコを一本取り出す。それを口に咥えると、煙草盆に備え付けてあるマッチを取り、それを擦って火を点ける。
マッチの火に照らされた貴子の顔が浮かび上がり、すぐにまたシルエットに戻る。
赤い点が闇にぽつんと浮かぶ。
それから「ふー…」と煙が勢いよく吐き出され、次いで体内に残ったのだろう薄い煙がゆるゆると、貴子の影から漏れ立ち上る。
薄闇の中。貴子は今筆を置いた絵を見ている。きっと見ている。
手に持ったタバコが生み出す灰が、重たそうに頭を垂れる。
タバコの火は消えず、煙だけがゆるゆると漂う。
貴子、思い出したようにタバコを灰皿の上にかざす。間一髪、灰は灰皿に落ちた。
再びタバコを口へ。一口吸って、煙を吐き出す。
貴子
はは……岩下貴子、一世一代の愚作だね、こりゃ。
しかしまぁ……悪くない。
……いっそ、私らしい……ってことかもね。

 

貴子、「ひひひ」と愉快そうに肩で笑う。
火が点いたままのタバコを灰皿に置く。
再び絵を見上げる。
キャンバスが部屋に入りきらず、天井板が外してある。さらにその上には断熱シートが貼ってあり、鈍く光を反射している。
【補足】
貴子が見てる絵は、実は上中下の3パーツで構成されているうちの「中」部分で、 そこには人物のみが描かれている。この絵は制作途中で何度も構成し直され、 フィールドを拡張し、継がれ、現在の大きさになった。
後年『柳原本邸』にて完全状態に組み上げられるまでは誰も全容を見ることはできなかったが、 そのような状態さらに中パーツのみであっても、あずまやの天井を抜かねば アトリエに入りきれない大きさである。
上下のパーツはこれほどは大きくなく、なにゆえこの中パーツだけこの大きさなのかというと、 貴子自身が、ここに描かれている人物たちを上下左右たりとも切り離したくなかったからである。
ここに、岩下貴子という人間の、真価と愛がある。
キャンバスを見つめる貴子の頭の中では、組み上げられた絵の全容が見えているのだろうか。
絵の中にいる人物をひとりひとり目で追う貴子。
友則、秋子、貴秋、友秋、春花と移動して、何も描かれていない空間で一瞬視線を止め、再び動き、
そして再び秋子で止まる。
貴子
ありがとう……。感謝してる。
兄貴を好いてくれたことも、アタシを構ってくれたことも。
……なーんて……アンタの前じゃ、言えないねぇ。恥ずかしいじゃん。

 

「ふひひ」と笑う。肩が揺れる。
視線が動いて、春花で止まる。
貴子
(軽く目を瞑り、ため息をつくと、ゆるりと眼を上げ)
正直、もっと長生きしたかったかなぁ。
迷惑がられるほど長生きして、ハルがどんな一生を送るのか、眺めてみたかった。

 

視線は絵に向いているが、もっと遠くを見ているかもしれない。
貴子
(どこも見ていない目で、呟く)
……運命は無慈悲だ。……容赦もない。
でも……
だからこそ、綺麗なんだな。……きっと。

 

絵の全体を見る。
目を瞑り、また開く。
貴子
いろいろあったけど……まぁ、概ね面白かった。
一生をかけるにふさわしい“人生(作品)”だったな。間違いなく。

 

タバコを取りだし、火を点ける。
貴子
……もっとも、まだまだ手を入れる余地は、大いに、ある。……ねぇ、峰(ホウ)。

 

反応がない。「にゃぁ」とも「ちりん」とも音がしない。
貴子
峰? ……峰?

 

呼べど猫は出てこない。
貴子
……どこ行ったんだい? そろそろ寝るよー。
………。
外かな? 行くなって、あれほど言ってるのに。
……お外はね、危険がいっぱいなんだよ?

 

タバコを一口吸って、灰皿に置く。煙がゆるゆると上っている。
貴子
……不味いな。
(「ぷわ」と欠伸をひとつ)……先に、寝るか。……寒……。

 

イスの足元に置いていた薄掛けを取ると、広げて自分に掛ける。
貴子
茶碗蒸し、食べたいな。……ひさびさに、晩ゴハン、みんなと……

 

 
(……ああ、そしたら、その前に……春花におかえり……って……玄か……)

 

「すー」っと静かな寝息。
やがて、それすらも……。
どこかで甲高い音。
車の急ブレーキだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
やがて、夜が明けて、街が動き始める。
岩下家もまた。
午前7時になるかならないかの時間帯。
○岩下家母屋
おかーさぁん。貴ちゃんにおはようしてくるー。

 

無理に起こしちゃダメよ?

 

はーぁい。

 

母屋から渡り土間へ、春花が出てくる。
○外 渡り土間。母屋と“あずまや”との中間あたり。
春花
はー――……。

 

息が白い。
春花、空を見上げる。すっかり冬の色を呈しているが、晴れわたって澄みきっている。
四十雀(シジュウカラ)が一羽。丸坊主の枝にとまっている。
○あずまや 玄関
春花が玄関の戸をカラカラと開けて入ってくる。
春花
貴ちゃーん。

 

框(かまち)を上がり、短い廊下を歩き、アトリエに進む。
春花
貴ちゃーん。おはよー。

 

アトリエの引き戸を開けて中に入り、貴子のそばへと行き、顔を覗きこむ。
春花
貴ちゃん。おはよう

 

貴子、ぴくりともしない。
春花
貴ちゃん?

 

春花、いつもの眠っている貴子とは違う雰囲気を感じ取る。
春花
(貴子を見つめながら)……おかーさん。おかーさん、おかーさ……。

 

母・秋子を呼びに戻るために振り返ろうとしたその瞬間、貴子に対峙する形で置いてある、キャンバスが目に入る。
いつもはカーテンが閉めてあって中を窺うことも出来ないそれが、今日は何故か全開で、貴子が今まで誰にも見せずに描いていた絵が、春花の目に飛びこんでくる。
春花
………。

 

気圧されて、しばらく呆然と絵を見つめる。
やがて……
春花
お……おかーさん……おかーさん。おとーさん……。

 

足がもつれて何度も転びそうになりながら、アトリエ、そして“あずまや”を出て行く。
春花(声)
貴ちゃんが……。貴ちゃんが……おかーさん……

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○あずまや アトリエ
秋子と友則がアトリエに飛びこんでくる。
春花は友則にすがりつき、友則はそんな春花の肩を庇うように抱いている。
秋子は貴子のそばまで走り寄り、そして貴子の様子を見る。
秋子
……貴ちゃん。

 

友則
……秋子。

 

秋子
(悲痛な表情で、首を横に振る)
……とりあえず、病院へ……。佐和子……姉さんにも……。
……私が、電話するわ。

 

春花
おかーさん、おとーさん。(じたばたと暴れて)おとーさんっ。

 

友則
春花、少し大人しく……

 

春花
お父さん。(あれ、とキャンバスを指さす)

 

友則
ん? ……なんだ?(春花の差す方を見て息をのむ)
………。
しゅ……秋……子。

 

秋子
(携帯電話を耳に当てたまま顔を上げる)

 

友則
秋子……(指差し)……お前の、後ろ……。

 

秋子
?……な……に? ……!!。
これ……は……(絶句)

 

自分たち夫婦と子供たち(それも大人になった姿の想像)が描かれた巨大絵に声が出ない。
電話から「おはようございます。東郷です」と小さく聞こえる。
秋子
なにをあんなに、厳重に隠してるのかと……。
こんなものを描いていたの? ……だから……夜中に……。

 

秋子の目に涙が盛り上がり、そして溢れ出す。
(携帯電話:「どうかなさいましたか?」「会長?」)
秋子
馬鹿っっ……貴子、あんたバカよっ!!
こんな絵に、命削るなんてっ!!

 

秋子、号泣。
友則は春花を抱いたまま、呆然と妻の姿を見ている。
春花は大人しく父に抱かれ、泣く母を見ている。
秋子
あんたの時に泣けたって、仕方がないでしょうっっ……ばかっ!!!

 

秋子、貴子の亡骸にくずおれ、そして貴子の顔を睨む。
涙は止まらず、貴子にかかった薄掛けを濡らす。
眠る貴子は、今にも目を開いて微笑みそうで。
しかし現実にそこにあるのは、魂のないイレモノだけである。
う゛う゛う゛う゛…と、バイブレーションの振動と共に秋子の携帯が鳴る。
秋子がかけた電話の相手(東郷)が、電話の向こうの様子がおかしいことに気が付き、いったん切って掛け直してきたものと思われる。
携帯を握りしめている秋子から、友則がそれを取り上げて、出る。
友則
もしもし。……やぁ、東郷君……実は……

 

友則が東郷の応対をしている間、秋子はただひたすらに泣いている。
春花が父親の腕の中からそっと抜け出し、母親のそばへ進む。
秋子と貴子を交互に見る。
春花
お母さん。貴ちゃん……。

 

秋子
(春花を抱きしめ)……ええ。ひとりで勝手に行っちゃった。
誰も、追いかけて行けないところに。

 

春花
……うん。

 

秋子
ごめんね、春花。……ごめんなさい。

 

春花
おかーさん……。

 

秋子
もう少し、気をつけていれば……よかった。

 

春花
……お母さん……。貴ちゃん……貴……

 

春花、泣き始める。ただただひたすらに。ごくごく小さな幼児のように。
秋子は泣きじゃくる春花を抱きしめる。
友則
(ぴ、と秋子の携帯を切る)……秋子。

 

秋子
………(顔を上げる)

 

友則
あとは、東郷君が、手配してくれる。

 

秋子
……はい。

 

友則
今は、とにかく休めと、東郷君が

 

秋子
……でも……。

 

友則
会社の方は、なんとかなる……と。

 

秋子
……そう……。そう、ね……。

 

――父さん?

 

声の方に視線を転じると、そこには困惑した貴秋と友秋の姿が。
タカ・トモはトレーニングウエア姿。
タカは上衣も着ているが、トモは長袖のアンダーシャツ姿。
友則
貴(タカ)……友(トモ)……。

 

貴秋
何かあった?

 

友則
……ああ。貴子が……

 

貴秋
……え?
僕たち、叔母さんに知らせなきゃいけないことがあって……

 

友則
なんだ?

 

友秋
父さん。外で、峰(ホウ)が……。

 

友則
え……?

 

見れば、トモの手には彼の上衣があり、抱きかかえている。
布の切れ目から、猫の耳や尾などの一部が見える。
貴秋
……たぶん……車に……。

 

友秋
ジョギングコースの、脇の草むらにいたから、たぶん、そこまで……。

 

友則
(次男の上衣を少し開いて、中を確認する)

 

貴秋
……峰……だよね?

 

友則
(黙って頷く)
……どうして……

 

貴秋・友秋
……ん?

 

友則
こんな偶然、重ならなくても、いいのに……。……ちくしょう……。

 

貴秋
……父さん……ま、さか……。

 

友則
……貴……子………(嗚咽)

 

友秋
貴子、叔母、さん……。

 

事態を把握して、双子も呆然とし、立ちすくむ。
外では、四十雀が1羽、落葉しきった庭木に止まり、チチ…と鳴いている。
寒い朝だが天気は良い。
畑に立った霜柱も、じきに溶けて土をずぶずぶにするのだろう。
鍬やスコップを入れた小さな物置や、庭のあちこちに生えた冬草。
家族が集う縁側。
貴子がよく座ってひなたぼっこしながら煙草を嗜んでいた庭石にも、冷たくも優しい冬の日差しが降り注いでいる。
 
これも一つの日常。
変哲もない人々の営みの中で起こった、変哲もない日常の一コマ。
すべての生き物が、生まれた瞬間に約束された唯一の事象。
ささやかなる……。
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