オリジナル格納庫

ある意味、カオスの巣窟。

あの桜並木の下で 小品集 中期

きっかけ?

きっかけ? 本文

 つい、ふと「自分何やってんだろう」とか思っちゃう日もある。
 
 春花が生まれる前。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
○岩下家。
夜分かなり遅く、午前様といっても過言ではない時間。
玄関の引き戸が力なく開く音がする(遠慮して音がしないように開けた音ではない)
秋子
……ただいま。

 

疲れた表情の秋子(しゅうこ)が仕事から戻ってきた。
玄関の電灯は点けられているが、内部は水を打ったような静かさ。
すでに家人は就寝中のようである。
秋子、ため息をひとつ付いて玄関の外と内の電気を消し、暗い廊下を
足音がしないように、そっと台所へと歩いていく。
台所に入り、シンク上の小さな蛍光灯の紐を引く。
明かりはともされたが、その光は青白くやや薄暗い。
テーブルの上に広げて置かれた折りたたみ式蠅帳(蝿避け・キッチンカバー)を取ると、
そこには冷めたおかず一式が並んでいる。
秋子は再びため息をつく。そして遅い夕食を取るために、おかず達の横に伏せて置かれた
自分の飯椀を取り上げようと手を伸ばしたその時、いきなり台所全体が明るくなる。
おかえり。

 

まぶしさに目を閉じていた秋子は、そろりと目を開け、声のほうに視線を向ける。
そこに立っているのは貴子。素肌に法被状の上着をひっかけ、前をはだけている。
秋子
……ただいま。
ずいふんとラフな格好ね。

 

貴子
今日は暑くてね。“あずまや”の中なら誰も来ないしね。

 

秋子
母屋に来るときは、せめて前を合わせて頂戴。
友ちゃんはいいけど、子供たちがびっくりするから。

 

貴子
(苦笑して)今さら。

 

秋子
それでも、お願い

 

貴子
へいへい。承知しました。

 

貴子、秋子に言われた通りに、手早く前を合わせると、
手に持っていたロープ状の紐を腰のところで3回ほど巻き、
やや左寄りの前面でそれを括る。
貴子
疲れてるようね。とりあえず、お茶飲む?

 

秋子
……いえ、自分で…

 

貴子
せっかく私が出てきたんだから、座って休みなって。

 

秋子
……ありがとう(椅子に座る)
……ごめんなさい。急いで出てきてくれたのに、叱っちゃって。

 

貴子
何のこと?(茶筒から茶っ葉を出す)

 

秋子
……紐。

 

貴子
んー?(ポットの湯を湯冷ましに入れて、それを急須に注ぐ)

 

秋子
あなたが、卒がないなんてこと、ないものね。

 

貴子
ぁ? ……よけいなことに気を回さなくて良いから、これ飲んでてよ。
ゴハン、あっためるから(秋子の前に、熱い茶の入った湯飲みを置く)

 

秋子
うん……(口を付ける)

 

貴子
(なにやら皿の上にプラスチックの丸い蓋状の物を置き、電子レンジにそれを放りこみながら)
……疲れてんね。

 

秋子
そうね。

 

貴子
今日はまた、どうしたの? もっと早くに帰ってこれる予定だったじゃない?

 

秋子
……いつもの事よ。いきなりの来賓と、その対応のために会議の始まりが遅れたの。
さらに、その会議が見事に踊っちゃってね。

 

貴子
それは大変。

 

秋子
踊るのは仕方がないことだけど、内容がね。

 

貴子
いつにも増して、しょーもないことだったワケだ(秋子の前に、おかずを並べる)

 

秋子
その通り。
なんでそんなことに時間を使わないといけないのかしらね?
……いただきます。

 

貴子
はいどぉぞ。
相変わらず、アンタんとこの役員は働き者だよねー。残業代が出るわけでもないのにさぁ。

 

秋子
そうね。
役員手当や管理職手当以上に働きたいんでしょうね。
私はイヤなんだけどね。

 

貴子
はは…。会長さんは大変ですね。
……てかさ、柳原。

 

秋子
なに?

 

貴子
ゴハンは美味しく食べようよ。

 

秋子
美味しいわよ? この煮付けなんか特に。
時間が経ってるから、味がしみてて……鯛のアラとゴボウね。

 

貴子
………。

 

秋子
……あれ?

 

いきなり秋子の目から、ぽろぽろと涙が溢れる。
貴子
………。

 

秋子
……え?……あれ……?

 

貴子
(テーブルの上に置いてあるキッチンペーパーを破って秋子に渡す)
……ん。

 

秋子
(受け取って)……ありが……と……。

 

貴子
疲れてんだよ。
ここのところ、休みっていう休み、なかったじゃない。

 

秋子
(涙をぬぐって、最後に鼻をかむ)そんな感じ、なかったのに。

 

貴子
今朝さ、アンタすごく嬉しそうに出て行ったんだよね。

 

秋子
……そう?

 

貴子
うん、そう。
『今日は早く帰れるから。』って。……私にだけ言って出たのは正解だったねぇ。

 

秋子
………。

 

貴子
男連中にいらぬ期待を持たせるのがイヤだったんでしょ?

 

秋子
……そう……かも。

 

貴子
ちなみにね、今日の夕飯は、男どもは「冷やしゃぶ」だったの。もちろんアタシも食べましたけどね。

 

貴子、立ち上がって小どんぶりに飯をよそうと、
鯛のアラ炊きとゴボウをその上に乗せて、
さらにその上からポットの湯をまんべんなくかける。
貴子
……で、これは、アタシの夜食なワケ。……いただきます。
アンタは、アタシの夜食をピンハネしているワケですよ。……あんだすたん?
(どんぶりの中をかき回してアラ炊きを崩している)

 

秋子
……ありがと。

 

貴子
いえいえ、どういたしまして(すぞぞぞ、と鯛茶漬け(?)をかき込む)
どうせ冷やしゃぶの肉は男どもが食べあげちゃって、アンタのはただのサラダになっちゃったからね。

 

秋子
(苦笑)

 

貴子
(黙々と飯をかき込む)

 

秋子
会議の途中でね……。

 

貴子
んー?

 

秋子
子供達の顔がちらついてね。

 

貴子
うん。

 

秋子
……で、ふと自分のいる部屋をぐるっと見てみたらね、すごく無味乾燥なのよ。

 

貴子
うん。

 

秋子
四角くて、灰色で。

 

貴子
………。

 

秋子
そう思ったら、なんだかね、自分はここで何してるんだろう、って思っちゃって。
この家にすごく帰りたくなったの。

 

貴子
うん。

 

秋子
ここは、あったかいじゃない?
木の家だし。

 

貴子
無駄に古いだけ、だけどね。

 

秋子
 秋子   でも好きなの。私は。
柳原の本宅にもない色がたくさんあるもの。

 

貴子
……そう。……ま、いいから食べてしまってよ。
後片付けは明日の朝やるけど。

 

秋子
はい(夕食を本格的に再開する)

 

貴子
(お茶を入れる)

 

秋子
(食べながら)貴ちゃん。今何か作っているの?

 

貴子
まぁね。つまらない依頼品だけどね。そんなに大きなモノでもないし。

 

秋子
相変わらず、依頼品となると不熱心よね。

 

貴子
よほどのものじゃないとね。……それよりも今は絵が描きたいなぁ。

 

秋子
絵?

 

貴子
うん。そう。
とにかくでっかい絵。いわゆる壁画ってヤツ。ビルの壁一面とか、そんなサイズのもの。

 

秋子
壮観ね。……ごちそうさまでした。

 

貴子
できたらきっと面白いと思うんだけど、そんなの描かせてくれそうな物好きもいないしね。
はいはい。お粗末さまでした。

 

秋子
あら、三島さんは?

 

貴子
(これ以上はないというほどのイヤな顔で)アイツだけはイヤ。恩を売るのも売られるのも。

 

秋子
冗談よ。……そうね、ちょっと探してみましょうか?

 

貴子
無理しなくていい。仕事になっちゃうのはイヤだし。

 

秋子
もうっ……。

 

貴子
ところで、明日も仕事なの?

 

秋子
……いえ。実は無理矢理お休みにしたの。
明日、佐和子先生の所に行って、『2、3日休養を要す』って診断書をもらってこようかしら……って。

 

      
貴子
社会的地位が高いっていうのも面倒だね。休みひとつ取るのに診断書がいるなんて。
そんなことしないでも、ちょこっと長期の休みが取れる方法はあるよ(にんまりと笑う)

 

秋子
事故に遭えとか言うんじゃないでしょうね? フェイクでも嫌よ。あとあと面倒になるから。

 

貴子
似たようなものかな?

 

秋子
ちょっと。

 

貴子
こさえちゃえばいいんだよ。

 

秋子
何を?

 

貴子
もう一人。

 

秋子
……え?

 

貴子
悪い考えじゃないと思うんだけどな?(へらりと笑う)

 

秋子
……ちょっ……。

 

貴子
それに、ブラザーズが大きくなってきて、我が家の男率が上がってきたから、むさくて。

 

秋子
………。

 

貴子
そういうわけで、アタシは女の子希望(うふふ、と笑う)

 

秋子
………。

 

貴子
どした?

 

秋子
呆れて物も言えないわ。

 

貴子
そうかな?

 

秋子
それならば、架空の事故に遭う方がよっぽど確実だわ。

 

貴子
まぁね。でもさ、老婆心ながら。
兄貴とそっちのほう、ちょっとご無沙汰でしょう?

 

秋子
……ばっっ……!!
そういうのをね、下世話というのよっ!!

 

貴子
ブラザーズが気になるなら、2号店にいくとか、どこぞのホテルに……は面倒か。
なんなら“あずまや”貸すけど?

 

秋子
結構です!

 

貴子
ひひひ。
半分の冗談は横に置いといてもさ、真面目な話、セックスって大事なんだって。
心が疲れているときにも、かなり有効。

 

秋子
……(疑いのまなざし)

 

貴子
眠れてないんじゃない? 最近。
心も体も疲れちゃうと眠りが浅くなって、さらに疲れが取れないっていう悪循環になるから。
そういう時には、心底安心できて信頼しているパートナーと、ぶっ倒れるまでヤるのが
一番の近道なんだけどな。

 

秋子
……貴ちゃん。

 

貴子
……まぁ兄貴もそろそろいい年だから、頑張らすのも可哀相かな、とか思ったりするんだけどね。

 

秋子
……貴子さん。

 

貴子
(両手を顔の前に掲げて、ブロックの姿勢)へへへ。
言いたいことは言いました。あとはあなたたちの問題です。

 

秋子
わかったわ(ふたり分の洗い物をシンクへ持っていく)

 

貴子
それと別になんだけど。

 

秋子
(洗い桶に食器を沈めて、肩越しに)なあに? その手の話題はもう結構よ?

 

貴子
明日 休みなら、今晩は“あずまや”に泊まりませんか?

 

秋子
……へ?

 

貴子
久々に、一緒に寝ない?(超ニコヤカに)

 

秋子
………。

 

貴子
別に何もやましいことは考えてませんよー。

 

秋子
人妻は守備範囲外、ですものね。

 

貴子
は、は。その通りです。
……てか、マジにダラ話しない? 眠くなったらその場で眠ればいいし。
布団からこぼれ落ちる事はないと思うけど?

 

秋子
無駄に広いものね。

 

貴子
セミ幅だから、無駄がつくほどではないわよ。
なんなら、連中が母屋からいなくなるまで、寝てればいいし。
それからセンセのトコ行ってくれば?

 

秋子
……分かったわ。そうする。

 

貴子
じゃ、お風呂入っちゃってよ。アンタで最後だし。
その間に布団敷いてくるから。

 

秋子
はいはい。
あ。貴ちゃん。

 

貴子
なんでしょ? 柳原さん。

 

秋子
寝るときは、せめてTシャツ着てよね。

 

貴子
えー、やだなー、暑いのに。

 

秋子
じゃないと、イヤ。

 

貴子
まー、そうですよね。

 

秋子
そうです。

 

貴子
はいはい。奥様の仰せの通りに。
じゃ、お風呂、行っといで。

 

秋子
ええ。上がったら“あすまや”(そっち)に行くわ。

 

貴子
うん。三つ指ついて待ってるし。

 

秋子
そういう冗談は……

 

貴子
はいはい(笑う)。

 

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