Coffee Break
Coffee Break 本文
ここのところずっと大人しいと思っていたのに、聖は、最近また夢中になるものを“仕入れ”てきた。おかげで最近、夜11時ごろにとる休憩は、もっぱら聖が飲み物を担当する。
私たちの生活は、それなりに規則正しく行われていて、私は朝~昼型で聖は昼~夜型だ。寝る時間帯は、私は一、二時くらいから七時まで(本当はせめて六時間は寝たいと思っているのだけれど)、聖は八時くらいから二時頃までだ。私は以前 聖に、もっと早く寝たら良いのに。せめて四時とか六時とか…と言ったのだけど、聖はしれっとした顔で「だって、朝ご飯も一緒に食べて、送り出してから寝たいんだもん」と言ったのでそれに甘えて、聖が朝食をつくり、頃合いを見計らって私を起こしに来るまで、私はベッドとのささやかな蜜月の余韻を楽しませてもらっている。
私たちはお互いに一つ家の中にいないとき――つまりは私が会社(事務所)に行っているときは、私はもちろんだが聖も自宅で黙々と仕事をし(どうやらたまにはサボっているようだが、それはもう彼女の性格からして仕方がないことだろうと思う)、仕事の目処がついた私が「何時頃に帰宅できそうだ」とメールを打ち、それを確認した聖が、息抜きがてら散歩がてら、朝四時まで開いている近所のスーパーマーケットに買い物に行ったり行かなかったりするらしい。
メールをした予定時間がずれ込みそうなとき(これは後ろに伸びることはあっても前倒しになることは決してない)は、できるかぎり逐一報告のメールを入れるので、聖はそれを見ながら、夕食の準備を段階的に進めていっているようだ。私はこの数年、よほど聖の仕事の締め切りがいくつも重なっているとか、スランプで仕事が雪だるま式に溜まってどうしようもなくなっていない限り、最良の状態の夕食をおいしくいただいている。まったく、私たちは見た目とは正反対に、いくぶんボーイッシュで体型の隠れる冬などには勘違いした人から「旦那さん」と呼ばれたりする聖が主婦業を完璧にこなし、「奥さん」と確実に呼ばれる私は、きっと世のサラリーマンのお父さんたちよりももっとずぼらな生活をしている。このスタイルになった当初は、自分の不甲斐なさにストレスが溜まりもしたが、聖に言いくるめられ 江利子に諭されて、自分を納得させ、完全に受け入れることにした。受け入れると今度は楽で楽でしかたなく、だから余裕があるときは積極的に手伝おうという気持ちにもなるし、なにより心がささくれ立つことが少なくなった。つまり、家庭円満のコツは何者でもなくただひとつ。私のような人間は、心に余裕を持つことである。余裕は視野を広げる。余裕がないというのは、うつむいて自分の手の甲しか見えていないという状態だ。それではいけない。
私たちはお互いに一つ家の中にいないとき――つまりは私が会社(事務所)に行っているときは、私はもちろんだが聖も自宅で黙々と仕事をし(どうやらたまにはサボっているようだが、それはもう彼女の性格からして仕方がないことだろうと思う)、仕事の目処がついた私が「何時頃に帰宅できそうだ」とメールを打ち、それを確認した聖が、息抜きがてら散歩がてら、朝四時まで開いている近所のスーパーマーケットに買い物に行ったり行かなかったりするらしい。
メールをした予定時間がずれ込みそうなとき(これは後ろに伸びることはあっても前倒しになることは決してない)は、できるかぎり逐一報告のメールを入れるので、聖はそれを見ながら、夕食の準備を段階的に進めていっているようだ。私はこの数年、よほど聖の仕事の締め切りがいくつも重なっているとか、スランプで仕事が雪だるま式に溜まってどうしようもなくなっていない限り、最良の状態の夕食をおいしくいただいている。まったく、私たちは見た目とは正反対に、いくぶんボーイッシュで体型の隠れる冬などには勘違いした人から「旦那さん」と呼ばれたりする聖が主婦業を完璧にこなし、「奥さん」と確実に呼ばれる私は、きっと世のサラリーマンのお父さんたちよりももっとずぼらな生活をしている。このスタイルになった当初は、自分の不甲斐なさにストレスが溜まりもしたが、聖に言いくるめられ 江利子に諭されて、自分を納得させ、完全に受け入れることにした。受け入れると今度は楽で楽でしかたなく、だから余裕があるときは積極的に手伝おうという気持ちにもなるし、なにより心がささくれ立つことが少なくなった。つまり、家庭円満のコツは何者でもなくただひとつ。私のような人間は、心に余裕を持つことである。余裕は視野を広げる。余裕がないというのは、うつむいて自分の手の甲しか見えていないという状態だ。それではいけない。
ベッドとの蜜月を楽しんでいる朝は残念ながらそれを見ることができないのだが、しかし夜のその時には、聖がキッチンでそれと真剣に取り組んでいる姿を楽しむことができる。もちろん、毎日のことではないけれど。
今、聖の右手にはお湯の沸いたコーヒーケトル。左手にはさっき碾いばかりのコーヒー豆が入ったドリッパー。ドリッパーの下にはガラス製のコーヒーサーバー。
聖はコーヒー器具についてはK社のものがお気に入りらしく、ほとんどすべての機具をこのメーカーのものでとりそろえている。だが、今彼女が手にしているドリッパーは別のメーカーのものということだった。理由はかんたん。買った店にK社のものがなかったから。そう言って笑いながら、聖はそれを買ったコーヒーショップの紙袋の中から取り出して、私の目の前に掲げて見せたのだった。
いつも使っているドリッパーは陶器製で、その中に、底と脇にある綴じ目を互い違いに折ったフィルターを入れ、そのフィルターの中に碾いた豆を入れてお湯を注ぎ抽出する。いわゆるペーパー式のドリッパーである。抽出後はフィルターごと捨てられるので、しばらくドリッパーごとシンクの中に放置しておいて、水気が切れたらそフィルターをつまみ上げてゴミ箱に捨てられるという手軽さだ。
私も聖が忙しい日など時々淹れることもある。しかし、聖のようには美味しく淹れられないのが残念だ。
聖に言わせると、コーヒーは1日1回でもいいから常に淹れていないとすぐに腕が鈍るのだそうで、その言葉を信じれば、ひと月に数えるほども淹れない私が、気を利かせてがんばってみても、そうそう簡単に美味しいコーヒーを点てられるはずもない。
今、聖の右手にはお湯の沸いたコーヒーケトル。左手にはさっき碾いばかりのコーヒー豆が入ったドリッパー。ドリッパーの下にはガラス製のコーヒーサーバー。
聖はコーヒー器具についてはK社のものがお気に入りらしく、ほとんどすべての機具をこのメーカーのものでとりそろえている。だが、今彼女が手にしているドリッパーは別のメーカーのものということだった。理由はかんたん。買った店にK社のものがなかったから。そう言って笑いながら、聖はそれを買ったコーヒーショップの紙袋の中から取り出して、私の目の前に掲げて見せたのだった。
いつも使っているドリッパーは陶器製で、その中に、底と脇にある綴じ目を互い違いに折ったフィルターを入れ、そのフィルターの中に碾いた豆を入れてお湯を注ぎ抽出する。いわゆるペーパー式のドリッパーである。抽出後はフィルターごと捨てられるので、しばらくドリッパーごとシンクの中に放置しておいて、水気が切れたらそフィルターをつまみ上げてゴミ箱に捨てられるという手軽さだ。
私も聖が忙しい日など時々淹れることもある。しかし、聖のようには美味しく淹れられないのが残念だ。
聖に言わせると、コーヒーは1日1回でもいいから常に淹れていないとすぐに腕が鈍るのだそうで、その言葉を信じれば、ひと月に数えるほども淹れない私が、気を利かせてがんばってみても、そうそう簡単に美味しいコーヒーを点てられるはずもない。
さて、インカ文明を思わせる柄の、コーヒーショップの紙袋から取り出されたものは、布製の、頂点がかなりゆるく丸みを帯びた逆円錐形の袋に木の柄がついたものだった。
どこだったかで見たことはある。これもコーヒーのドリッパーである。
「じゃーん。ふひひ、さてこれは何でしょう?」
いつものことだが、何かをはじめて私に見せるとき、聖は必ずいたずらっ子のような顔で笑う。一体なにを期待しているんだろうと思うが、たぶん何かを期待しているわけではなさそうだ。単に、いつもとは違う、初めての話題(かもしれない)をすることが、嬉しくて仕方がないのだろう。困った人である。そしてそれが可愛くもある。
「……ネル・ドリッパーでしょ。知ってるわよ?」
私がにべもなく答えても、聖はめげない。
「さっすが蓉子だねー。うんうん、もちろん知ってるよね-」
カラカラと笑いながらビニールの袋を開封し、中のドリッパーを取り出して、私の目の前で、さらにひらひら降って見せた。……この様子では、内心がっかりしているに違いない。では助け船を出そう。
「ネルで淹れたコーヒーは、どの抽出方法で淹れたものより、いちばん美味しいんですってね」
「あ、うん。そう。そうなんですー。さっすが蓉子、物知りだね」
ふむ。まだ押しが足りないか。ではもう一声。
「それを買ってきたってことは、今まで以上に美味しいコーヒーを淹れる研究をするってことかしら?」
そう言うと、聖の目がキラッと光った。
実際に光ったわけではない。嬉しそうに目が見開いたのである。しかし聖の瞳は一般的な日本人のそれよりやや大きい。色素が薄く、光の加減によってはうっすら青みがかかっているようにも見えるので、時には虹彩部分だけが強調されすぎて、やぶにらみの三白眼に見えることもあるのだが、通常は、大きめで、ちょっと見開くと大昔の少女マンガで言うところの『お星様の飛んでいる目』に見えることも多い。
かくして目を光らせた聖は、さらに破顔して興奮気味に笑う。
「うん、そう。蓉子にもっとおいしいコーヒーを淹れたげたくてさ。ショップにあったから買ってきた。思ってたよりも安いんだよこれ。毎日淹れてもひと月くらいは使えるって話だし」
聖は興奮して、さらにまくし立てる。
「ネットで知り合った人が偶然ネルドリップやってる人でさ。手入れの仕方とかも、訊いてみれば思ったほど難しくなかったからさ」
「はいはい。とてもうれしいわ。ところで私、今すごくコーヒーが飲みたいのだけれど」
「……! わかった。すぐ淹れるよ!」
飛び上がらんばかりに喜んで、すぐにキッチンに駆け込んでいった。やれやれである。
どこだったかで見たことはある。これもコーヒーのドリッパーである。
「じゃーん。ふひひ、さてこれは何でしょう?」
いつものことだが、何かをはじめて私に見せるとき、聖は必ずいたずらっ子のような顔で笑う。一体なにを期待しているんだろうと思うが、たぶん何かを期待しているわけではなさそうだ。単に、いつもとは違う、初めての話題(かもしれない)をすることが、嬉しくて仕方がないのだろう。困った人である。そしてそれが可愛くもある。
「……ネル・ドリッパーでしょ。知ってるわよ?」
私がにべもなく答えても、聖はめげない。
「さっすが蓉子だねー。うんうん、もちろん知ってるよね-」
カラカラと笑いながらビニールの袋を開封し、中のドリッパーを取り出して、私の目の前で、さらにひらひら降って見せた。……この様子では、内心がっかりしているに違いない。では助け船を出そう。
「ネルで淹れたコーヒーは、どの抽出方法で淹れたものより、いちばん美味しいんですってね」
「あ、うん。そう。そうなんですー。さっすが蓉子、物知りだね」
ふむ。まだ押しが足りないか。ではもう一声。
「それを買ってきたってことは、今まで以上に美味しいコーヒーを淹れる研究をするってことかしら?」
そう言うと、聖の目がキラッと光った。
実際に光ったわけではない。嬉しそうに目が見開いたのである。しかし聖の瞳は一般的な日本人のそれよりやや大きい。色素が薄く、光の加減によってはうっすら青みがかかっているようにも見えるので、時には虹彩部分だけが強調されすぎて、やぶにらみの三白眼に見えることもあるのだが、通常は、大きめで、ちょっと見開くと大昔の少女マンガで言うところの『お星様の飛んでいる目』に見えることも多い。
かくして目を光らせた聖は、さらに破顔して興奮気味に笑う。
「うん、そう。蓉子にもっとおいしいコーヒーを淹れたげたくてさ。ショップにあったから買ってきた。思ってたよりも安いんだよこれ。毎日淹れてもひと月くらいは使えるって話だし」
聖は興奮して、さらにまくし立てる。
「ネットで知り合った人が偶然ネルドリップやってる人でさ。手入れの仕方とかも、訊いてみれば思ったほど難しくなかったからさ」
「はいはい。とてもうれしいわ。ところで私、今すごくコーヒーが飲みたいのだけれど」
「……! わかった。すぐ淹れるよ!」
飛び上がらんばかりに喜んで、すぐにキッチンに駆け込んでいった。やれやれである。
コーヒーを淹れるときだけは、聖は真剣だ。紅茶や緑茶は鼻歌交じりに煎れることも多いが、コーヒーだけはお気楽に淹れない。ただ、やたらと機嫌良く淹れてる日はあるにはある。しかし私にはその差がわからない。
ひとりでいるときに何かいいことがあったのか、豆の碾き具合が思いの外良かっただけなのか。
だが、そんな時でも、豆に湯を落とし始める一瞬前から、一心不乱にコーヒーと落ちる湯を見つめ続けている。その瞬間、聖の世界には本人とコーヒーしかいない。ただひたすらにコーヒーと対峙して、コーヒーと会話している。
私にはそう見える。
「ねぇねぇ」
聖が珍しく手招きをしている。私は立ち上がって聖のそばに行く。彼女の手には碾いたコーヒー豆を入れたドリッパーと湯の沸いたケトルが握られている。右にケトル、左にドリッパーだ。ドリッパーの下には、もちろんコーヒーサーバー。
「落とすよ」
聖は静かに言うと、ドリッパーの中心に視線を落とした。もう他には何も目に入らないだろう。そして、しずかにケトルが傾いていく。
細く、細く。
豆全体にまんべんなくしかし静かに湯が落とされていく。注がれているのではない。落とされているが正しい。
丁寧に沸かされただろう湯を含んで、豆たちはふくふくと膨れあがる。そして聖が愛して止まない香りが私たちを包んでいく。
ほんの少しだけ深く、鼻から息を吸い込む。鼻腔の奥にふくよかな芳香が満たされて、アレの時に味わう陶酔感に似た感覚をおぼえた。思わず深々としたため息が漏れた。
「へへへ……」
聖が笑う声が聞こえた。たぶん私が感じたことを的確に察知したのだろう。なんだか負けたような気がして癪に障ったけれど、たまにはそんな日があっても良い、とも思えた。なるほど、これがコーヒーの魔力なのか、と私は納得した。どおりで聖がこの仕事を独り占めしたがるわけだ。もっともこれは邪推かもしれないけれど。
「……うん……」
何を納得しているのか、聖はいつの間にか元に戻って真剣にコーヒーを点てながら、ときどきなにやら相づちを打っている。
聖の目には何が見えているのだろう。聖は今何を感じているのだろう。
そう思うと、私は今、聖の心を捕らえて離さないコーヒーに嫉妬をおぼえた。だがここで聖の気を引こうと、彼女の首や腕にに腕を回したりしてはいけないのだ。私は自分の心をややもてあましていることを感じながら、聖の手元で今なお膨らんで、しぼむ気配もないドリッパーの中のコーヒー豆を見つめていた。
ひとりでいるときに何かいいことがあったのか、豆の碾き具合が思いの外良かっただけなのか。
だが、そんな時でも、豆に湯を落とし始める一瞬前から、一心不乱にコーヒーと落ちる湯を見つめ続けている。その瞬間、聖の世界には本人とコーヒーしかいない。ただひたすらにコーヒーと対峙して、コーヒーと会話している。
私にはそう見える。
「ねぇねぇ」
聖が珍しく手招きをしている。私は立ち上がって聖のそばに行く。彼女の手には碾いたコーヒー豆を入れたドリッパーと湯の沸いたケトルが握られている。右にケトル、左にドリッパーだ。ドリッパーの下には、もちろんコーヒーサーバー。
「落とすよ」
聖は静かに言うと、ドリッパーの中心に視線を落とした。もう他には何も目に入らないだろう。そして、しずかにケトルが傾いていく。
細く、細く。
豆全体にまんべんなくしかし静かに湯が落とされていく。注がれているのではない。落とされているが正しい。
丁寧に沸かされただろう湯を含んで、豆たちはふくふくと膨れあがる。そして聖が愛して止まない香りが私たちを包んでいく。
ほんの少しだけ深く、鼻から息を吸い込む。鼻腔の奥にふくよかな芳香が満たされて、アレの時に味わう陶酔感に似た感覚をおぼえた。思わず深々としたため息が漏れた。
「へへへ……」
聖が笑う声が聞こえた。たぶん私が感じたことを的確に察知したのだろう。なんだか負けたような気がして癪に障ったけれど、たまにはそんな日があっても良い、とも思えた。なるほど、これがコーヒーの魔力なのか、と私は納得した。どおりで聖がこの仕事を独り占めしたがるわけだ。もっともこれは邪推かもしれないけれど。
「……うん……」
何を納得しているのか、聖はいつの間にか元に戻って真剣にコーヒーを点てながら、ときどきなにやら相づちを打っている。
聖の目には何が見えているのだろう。聖は今何を感じているのだろう。
そう思うと、私は今、聖の心を捕らえて離さないコーヒーに嫉妬をおぼえた。だがここで聖の気を引こうと、彼女の首や腕にに腕を回したりしてはいけないのだ。私は自分の心をややもてあましていることを感じながら、聖の手元で今なお膨らんで、しぼむ気配もないドリッパーの中のコーヒー豆を見つめていた。
「……うーん……ちょっとさらっとしすぎてるかなぁ?」
淹れたコーヒーを飲みながら、聖が感想を述べた。
「そう? ……私にはちょっと分からないわ」
私の感想はこれに尽きた。そもそもコーヒーの味はよくわからない。インスタントコーヒーと豆くらいは何となく分かるけれど、それでも、とてもとても気をつかい丁寧に淹れてたインスタントコーヒーを、豆からのコーヒーと間違うことは、たまにある。その程度の味覚なのだ。コーヒーに関しては。
「ペーパーフィルターとちがって、ドリッパーの中に留まる時間が短いそうだから、たぶんそれで味も風味も淡泊なのかもね」
「でも私はこの味、嫌いじゃないわ。癖がなくて飲みやすいというか」
「うん。それは言えるね。でもさ、飲んだあとにさ、口の中とか、鼻の奥にさ……いつものだったら残るじゃない、余韻が」
言われていれば、確かに余韻はない。コーヒー好きにはあの余韻があってこそのコーヒーなのかもしれないけれど、さほどコーヒーが好きではないひとからすれば、口の中がいつまでも苦い感じがするのではないだろうか。
「うーん……確かにそうねぇ……ねぇ聖?」
「んー?」
「味はできるだけこのままで、でも香りを強めに抽出ってできないのかしら?」
頭で考えたものではなく、思わずポロリと口をついて出た言葉だった。言ってしまってから自分で驚いたが、言われた聖の方もとても驚いたようだった。
「あー……で、できなくはないと思うわよ。そうだなぁ……いちばん簡単なのは豆を変えることかな。あ、それだと味まで変わっちゃうから、豆を二種類以上混ぜてやるといいか。ちょっと待ってて」
言うと聖はキッチンへ行き、手碾きのミルと浅めのグラスを三つ、そして冷蔵庫に入れているコーヒー豆を三種類持ってきた。
我が家はお茶類の葉やコーヒー豆など、それぞれを数種類常備している。その日の気分やお天気の状態によって、より美味しく感じるだろうものを淹れるからだ。特に紅茶は、高校時代に私たちが所属していた、薔薇の館といういわゆる生徒会室でつちかった習慣からくるものだが、おたがい大人になりこうして一緒に住むようになってからは、緑茶やコーヒー豆なども自然とそうするようになった。このマンションに移り住むときに冷蔵庫を新調したが、その際に『コーヒーを含めた茶類を収納でき、さらに日常の飲食物もある程度収納できる能力であることをが条件として選んだくらいだ。おかげで女ふたり暮らしの冷蔵庫にしてはかなり大きなほうだと思う。なにせすでに子供がふたりいる江利子の家の冷蔵庫よりも大きいのだから。もっとも、あそこは子供がもっと大きくなったら買い換えるというか、お父さまやお兄さま方の誰か、あるいは全員でプレゼントするのだろうけれど。
「とりあえずこれで」
メジャースプーンに五杯ずつ、聖はそれぞれの豆を取り出しそれをグラスに入れた。それからおもむろに、それらの香りを嗅ぎ始める。
「碾いたほうが香りが分かりやすい……か」
独り言ちて豆を碾きはじめる。部屋の中にふわりとコーヒーの香りが広がった。
豆は碾かれるたび、それぞれの香りを放っていく。確かにひとつひとつ香りが違う。よく淹れて消費の早いブレンドは、豆が新しいからか、香りはやさしいのだが、ほかの豆に比べて涼やかな香りがした。同じ学校の生徒なのに周囲から見てそれとなく判ってしまう、入学したての中高生のような、そんな感じ。
聖は碾いた豆を何パターンかブレンドして香りを嗅いだあと、私の方にそれを差し出す。私も香りを嗅ぐ。頭で想像は付いていたが、思っていた以上に複雑な芳香が鼻の奥をくすぐって、私はふたたびちょっとした陶酔感にひたる。自分がこんなに匂いに対して敏感だったとは、ちょっとした発見だった。
「これ、抽出するとまた、感じが変わると思うのよね。……でも、今日はこれでおしまい」
「え?」
「もう今日分は飲んじゃったしね。これ以上飲むと眠れなくなるわよ?」
「この豆、どうするの?」
聖はふだん、淹れる直前に碾いた豆しか使わないのだ。
「ああ、ラップで蓋して、冷蔵庫に入れておくわ。明日のお昼飲むときに使う。じゃないともったいないでしょ?」
明日昼に少し研究してみるよ、とも聖は言った。探究心に火が点いたようだった。
こうなった聖はなかなか止められない。本人の気が済むまでやらせるのがいちばんいい。しばらくはいろんなバリエーションのコーヒーを飲めそうだわ思った。しかし、紅茶や緑茶はしばらく自分で淹れなければならないだろう。どうしてもコーヒー以外を飲みたいときに、うまくタイミングを計ってキッチンへ行かないと、自分が今切実に欲しいものは手に入らないだろう。私はそう覚悟を決めた。
淹れたコーヒーを飲みながら、聖が感想を述べた。
「そう? ……私にはちょっと分からないわ」
私の感想はこれに尽きた。そもそもコーヒーの味はよくわからない。インスタントコーヒーと豆くらいは何となく分かるけれど、それでも、とてもとても気をつかい丁寧に淹れてたインスタントコーヒーを、豆からのコーヒーと間違うことは、たまにある。その程度の味覚なのだ。コーヒーに関しては。
「ペーパーフィルターとちがって、ドリッパーの中に留まる時間が短いそうだから、たぶんそれで味も風味も淡泊なのかもね」
「でも私はこの味、嫌いじゃないわ。癖がなくて飲みやすいというか」
「うん。それは言えるね。でもさ、飲んだあとにさ、口の中とか、鼻の奥にさ……いつものだったら残るじゃない、余韻が」
言われていれば、確かに余韻はない。コーヒー好きにはあの余韻があってこそのコーヒーなのかもしれないけれど、さほどコーヒーが好きではないひとからすれば、口の中がいつまでも苦い感じがするのではないだろうか。
「うーん……確かにそうねぇ……ねぇ聖?」
「んー?」
「味はできるだけこのままで、でも香りを強めに抽出ってできないのかしら?」
頭で考えたものではなく、思わずポロリと口をついて出た言葉だった。言ってしまってから自分で驚いたが、言われた聖の方もとても驚いたようだった。
「あー……で、できなくはないと思うわよ。そうだなぁ……いちばん簡単なのは豆を変えることかな。あ、それだと味まで変わっちゃうから、豆を二種類以上混ぜてやるといいか。ちょっと待ってて」
言うと聖はキッチンへ行き、手碾きのミルと浅めのグラスを三つ、そして冷蔵庫に入れているコーヒー豆を三種類持ってきた。
我が家はお茶類の葉やコーヒー豆など、それぞれを数種類常備している。その日の気分やお天気の状態によって、より美味しく感じるだろうものを淹れるからだ。特に紅茶は、高校時代に私たちが所属していた、薔薇の館といういわゆる生徒会室でつちかった習慣からくるものだが、おたがい大人になりこうして一緒に住むようになってからは、緑茶やコーヒー豆なども自然とそうするようになった。このマンションに移り住むときに冷蔵庫を新調したが、その際に『コーヒーを含めた茶類を収納でき、さらに日常の飲食物もある程度収納できる能力であることをが条件として選んだくらいだ。おかげで女ふたり暮らしの冷蔵庫にしてはかなり大きなほうだと思う。なにせすでに子供がふたりいる江利子の家の冷蔵庫よりも大きいのだから。もっとも、あそこは子供がもっと大きくなったら買い換えるというか、お父さまやお兄さま方の誰か、あるいは全員でプレゼントするのだろうけれど。
「とりあえずこれで」
メジャースプーンに五杯ずつ、聖はそれぞれの豆を取り出しそれをグラスに入れた。それからおもむろに、それらの香りを嗅ぎ始める。
「碾いたほうが香りが分かりやすい……か」
独り言ちて豆を碾きはじめる。部屋の中にふわりとコーヒーの香りが広がった。
豆は碾かれるたび、それぞれの香りを放っていく。確かにひとつひとつ香りが違う。よく淹れて消費の早いブレンドは、豆が新しいからか、香りはやさしいのだが、ほかの豆に比べて涼やかな香りがした。同じ学校の生徒なのに周囲から見てそれとなく判ってしまう、入学したての中高生のような、そんな感じ。
聖は碾いた豆を何パターンかブレンドして香りを嗅いだあと、私の方にそれを差し出す。私も香りを嗅ぐ。頭で想像は付いていたが、思っていた以上に複雑な芳香が鼻の奥をくすぐって、私はふたたびちょっとした陶酔感にひたる。自分がこんなに匂いに対して敏感だったとは、ちょっとした発見だった。
「これ、抽出するとまた、感じが変わると思うのよね。……でも、今日はこれでおしまい」
「え?」
「もう今日分は飲んじゃったしね。これ以上飲むと眠れなくなるわよ?」
「この豆、どうするの?」
聖はふだん、淹れる直前に碾いた豆しか使わないのだ。
「ああ、ラップで蓋して、冷蔵庫に入れておくわ。明日のお昼飲むときに使う。じゃないともったいないでしょ?」
明日昼に少し研究してみるよ、とも聖は言った。探究心に火が点いたようだった。
こうなった聖はなかなか止められない。本人の気が済むまでやらせるのがいちばんいい。しばらくはいろんなバリエーションのコーヒーを飲めそうだわ思った。しかし、紅茶や緑茶はしばらく自分で淹れなければならないだろう。どうしてもコーヒー以外を飲みたいときに、うまくタイミングを計ってキッチンへ行かないと、自分が今切実に欲しいものは手に入らないだろう。私はそう覚悟を決めた。
こうして我が家は、ネルドリップで淹れたコーヒーがよく出されるようになった。
案の定、しばらくはコーヒーばかりが続いたけれど、今はもう紅茶もよく出されるようになった。ペーパーフィルターの使用頻度がやや減ったようで、戸棚の中のフィルターはなかなか減らなくなった。
聖いわく「ネルだと何度も使えるから経済的だよねー」ということだが、実はそうでもないことに私は気づいている。
毎日淹れるならひと月程度で交換するのがいいらしいネルドリッパー。交換用は三枚入って売られている。つまりは約三ヶ月分だ。これをペーパーフィルターの消費量で考える。我が家は一日に多くて五枚消費されていた。百枚入りを買えば二十日でなくなる計算だ。もちろん毎日確実に五枚使うわけではないから、平均でひと月百枚くらい使っているだろうか。これの値段を単純に三倍しても、交換用ネルの金額よりもやや低かったりする。
ただ、そんな些細なことに目くじらを立てる必要はない。なにせ美味しいコーヒーを淹れてもらっているのだから。
私はおおむねしあわせだ。
大好きな人に毎日のように美味しい食事や飲み物を出してもらっているのだから。このしあわせを些細な指摘で壊すのは野暮というものだろう。
案の定、しばらくはコーヒーばかりが続いたけれど、今はもう紅茶もよく出されるようになった。ペーパーフィルターの使用頻度がやや減ったようで、戸棚の中のフィルターはなかなか減らなくなった。
聖いわく「ネルだと何度も使えるから経済的だよねー」ということだが、実はそうでもないことに私は気づいている。
毎日淹れるならひと月程度で交換するのがいいらしいネルドリッパー。交換用は三枚入って売られている。つまりは約三ヶ月分だ。これをペーパーフィルターの消費量で考える。我が家は一日に多くて五枚消費されていた。百枚入りを買えば二十日でなくなる計算だ。もちろん毎日確実に五枚使うわけではないから、平均でひと月百枚くらい使っているだろうか。これの値段を単純に三倍しても、交換用ネルの金額よりもやや低かったりする。
ただ、そんな些細なことに目くじらを立てる必要はない。なにせ美味しいコーヒーを淹れてもらっているのだから。
私はおおむねしあわせだ。
大好きな人に毎日のように美味しい食事や飲み物を出してもらっているのだから。このしあわせを些細な指摘で壊すのは野暮というものだろう。
……ただ、コーヒー豆を自家ブレンドすることが当たり前になって、コーヒー豆の種類が増え、その購入金額がなかなかシャレになっていないことだけは、特筆しておくべきかもしれない。