へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

ジュズダマ・1

ジュズダマ・1 本文

1.上陸。―出会いと別れと―

 ごきげんよう、志摩子さん。
 残暑お見舞い申し上げます。
 一昨日、東京湾を出航したフェリーは、一度四国の某港に寄港したあと、四国沖の太平洋を順調に、九州へと船足を進めています。
 最初の頃は、それこそ初めて、トビウオが何十メートルも海の上を滑空しているのを見て、大興奮していたりしてたけど、1日半の船旅は、まだあと1/4ほど残っているのに、もう退屈しきってしまいました。
 お盆は過ぎたけど日差しはまだまだ夏だから、甲板でひなたぼっこってわけにもいかないし(そんなことをしたら、日焼けで真っ赤っかのおサル乃梨子が一丁上がり!...になってしまいます・笑)、長期休暇中だからか、船はほぼ満席状態で、どこにいても人・人・人です。雑魚寝の2等船室は子供が走り回っていたりして、昼寝どころかゆっくりくつろぐこともできない有様です。せめて、ベッド付きの1等船室を予約しておくんだったと後悔中(航海中なだけに、なんてね・笑)
 結局、人があまりないという理由で、甲板の日陰になっているところで、本を読んだり、散歩をしたり、他の人に交じってジョギングしたり(大きな船なので、一般の人が入れる甲板部分をぐるっと一周すると、200メートルくらいはあるらしいです。今朝、海から朝日が出るところを見ようと思って外に出たら、ジョギングしている人たちが数人いて、びっくりしちゃた)して、暑くなったら冷房の効いているラウンジに逃げ込んだりしています。
 車用の甲板には乗船と下船の時しか入れなから、“相棒”の様子は見に行けないの。それがちょっと残念かな。
 “相棒”と言えば、今回の九州行きもタクヤ君と志摩子さんのお父さんには大変お世話になりっぱなしで、もちろん出かける前にもお礼は言ったけど、まだまだ行きのフェリーの段階なのに、こんなにいろんなことを経験できて、さらにさらに感謝感謝です。小父さまにはもちろんのこと、タクヤ君が小寓寺に来られたときは、私がそう言っていたって、できたら伝えておいて下さい。
 目の前に広がっている広大な海を見ていると、志摩子さんと一緒にこれたらもっとよかったなぁって思うけど、ふたりで慣れない九州で迷子になるかもしれないって考えたら、やっぱり私が先にいっぱいあちこちを下見しておいてから、いつか志摩子さんとゆっくりじっくり九州を回るといいかなって、考え直しました。
 そんなワケで、二条乃梨子・19のひとり旅を堪能してきます。
 九州に上陸したら、まずはこの手紙を投函して、それから未知の邦《くに》へ出発します。
 ではでは、このあたりで。
 あなかしこ。
藤堂志摩子さま
 8月○日
                    二条乃梨子
 PS:あ、ちゃんと先方へのお土産は、出航前に忘れずに買ったからね。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
 ………。
 ここまでは確かに順調だったのだ。
 ここまではな。
 ………。
 昨日の夕方、海を走るフェリーの甲板で志摩子さんに手紙を書いて、夜、そこそこ寝苦しい二等船室で微妙に浅い睡眠を取って。次の明け方——つまりは今日——。“相棒”である水色のオンボロ・スクーターとともに九州のF県はK港に上陸を果たした私・二条乃梨子は、予告どおりに志摩子さんへの手紙をポスト(テレビ番組でしか見たことがない円筒型だった)に投函して、今回の拠点となる同県Y郡のとあるお寺へとむかっていた。
 上陸地点であるK港から目的地までは直線距離で70キロメートル強。スクーターで走覇する距離ではないと関係者一同に言われはしたけれど、しかし、大学の夏休みの課題に使う資料集めと取材のために、自由に動ける足としてスクーターを選んだのは間違った選択ではないと私は思っている。
 東京では普段私はもっぱら自転車を愛用しているが、さすがにそれで宿への道のりを根性で走覇してしまったら、それだけで体力と気力を使い果たしてしまって、本末転倒になるだろうことは火を見るより明らかだった。
 なので、貧乏学生には過ぎたアイテム、スクーターのご登場とあいなったわけである。
 スクーターをお世話してくれたのは、仏像鑑賞仲間のタクヤ君と志摩子さんのお父さん。なんでもふたりのネットワークを駆使して、ほとんどタダのような値段のスクーターをどこぞから調達してきてくれて、それをまた「遅ればせながらの大学入学祝い」と、つい先日私にプレゼントしくれたのだ。
 ちなみに、原付自転車の免許はこの話が出てからあわてて試験を受けに行ったありさまだから、運転歴は推《お》して知るべし……である。
 出かける時に、大叔母でもあり間借り先の大家でもある菫子さんから「事故だけは起こさないよう安全運転でね。アタシゃ九州までアンタをもらい受けには行きたくないよ」という、ありがたーいお言葉もちゃんと頂いた。
「大丈夫!」と胸を張って言えるほど運転経験はないけれど、だからこそ道中、超安全運転でいきますって。私だって事故りたくないもんね。
 さて。九州に上陸してからの道のりは、とても順調だった。
 下船してからあらためて気が付いたのだけど、空気がしっとりと適度に湿り気を帯びていて、早朝ということも相まってか、端的に言えばとても清々《すがすが》しかった。ここでラジオ体操の音楽が流れてきたら、つられて踊って(?)しまいたくなるほどには。
 港周辺は何もないところだったけど、ちょっと走って漁港に近い駅のほうに行けば、早朝にフェリーから下船した人や朝市客相手の定食屋なんかが立ち並んでいたりして、東京では考えられないほど新鮮で安くておいしい魚をおかずにした朝ご飯を、おなかいっぱい食べることができた。
 ごはんを食べたあとは、さっそく愛車にまたがって出発進行。事前に調べておいたルートに沿って、ひたすら今日の目的地に向かうのだ!(インターネットにはなんでも「落ちて」いるから、こういう調べ物をするときはとても重宝する)
 廃車寸前だったらしい水色のオンボロスクーターは、時速40キロメートルも出しちゃうと息切れしたような排気音を出し始めるから、スピードは出せないし長くも走り続けられない。初心運転者な私にはちょうどいい程度の相棒なんだけど、そんなわけで逗留先に行くのに何時間かかるか皆目見当も付かないのが現実。だから今日はまるっと移動日に当てていた。
 途中、要所要所で先方に連絡を入れながら、どこまでも広がる田んぼとか、東京とは違う、抜けるような深い色の青空と暑苦しいほど濃い緑の山々が織りなすコントラストの強烈さとか、はじめて来た南国の風景の不思議とかに心奪われ、それらを堪能しながらトコトコと、まぁ順調に進んでいたのに。
 のに。…のに。……のに。
 なんてことだ。こんな何もないところで、スクーターが動かなくなってしまうなんて。
 ちょっと前に走っていた田んぼの真ん中をつっきるほぼ一直線の道で、対象物が少なすぎて、うっかり時速40キロ以上スピードが出ていたのに気が付かなかったからか。それとも運転が気持ちよすぎて、だらだらと倍以上走り続けてしまったからか。あるいはこの登りの山道で無理させすぎたか。
「せめて、10キロごとの休憩はきっちり守るべきだったなぁ」
 今さら悔いても「あとの祭り」ってやつだ。
 私の相棒はいきなり『ぷすぷす・へにゃ~~~~~』と音をたて始めたかと思ったら、『ぽすん…』ともの悲しーい音を最後に沈黙した。それからもう30分は経っているけど、気温のせいかエンジンあたりはぜんぜん冷えてくれないし、もちろん動く気配すらない。全然、ない。
 私は上着の内ポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイ画面を見る。ここに止まってから何度目かの確認をして、ため息をついた。
「やっぱダメか……」
 携帯電話の小さなディスプレイのアンテナ表示部分には、無慈悲にも『圏外』の文字が、そこにしっかり居座っていた。
 ついでに時間も確認する。時刻は3時をちょっと回ったところだった。夕方に近いせいか、時間が経つごとに蒸し暑くなってきていた。しかしこの道は無舗装のうえに周りは草と木だらけで、照り返しがあまりないのがせめてもの救いだ。
「かなり近くなってはいるんだけどなー」
 地図を出して確認する。現在地(たぶん)から、直線距離でほんの1センチメートル先くらいしか離れていない。もっとも、この地図は縮尺が10万分の1だから、決して『近く』ではないのだけど。
 人間、現実逃避をし始めると、こういったことで自分を慰めるしかすべがなくなっていくんだろうなーとか、ぼんやりと考えた。
「一本道は一本道なんだよねー」
 一本道でも遠いことには違いない。ついでに言うとこの道は現在登《のぼ》りで、目的地はこの道を登りきったあたりに位置していると、地図は容赦なく語っている。
「……さすがにコレを押して行くのは…………」
 目的地の方向を見る。道はうねりながら木々の間に消えている。そこから目線をちょっと上げたら、山肌に沿って転落防止用だろうガードレールが、斜め上へ右に左にと、とぎれとぎれに続いているのがちらほら見えた。
「……無理……か」
 何度目かの盛大なため息が口から漏れ、私は視線をスクーターに戻したその時……。
 いきなり視界の色が消えていったような錯覚にとらわれた。……いや、錯覚ではなく、現実に周囲の彩度が下がっていった。
「……え?」
 私は何が起こったか分からずに、顔を上げて周囲を見回した。
「……う……っそぉ……」
 今の今まで極彩色の夏色だった空と大気が、いきなり青の要素が抜け落ちて、みるみるうちにどす黒い黄色に染まっていった。猛烈に蒸し暑くなる。それと同時に、雲ひとつなかった空を、どこからわき出してきたか分からないこれまたどろりと垂れ落ちそうな、重くて黒に近い灰色な雲が覆い隠してしまった。
 ぼつ……。ぼつっ……。
「わっ!……ヤバいっっ!!」
 雨っ!
 ……粒、でかっ……!!
 このままでは自分も荷物も濡れてしまう。とっさに荷物をひん掴《づか》んだけど、一瞬私は躊躇した。
 スクーターが……。
 しかしそれ以上を思う間もなく、雨粒の弾は密度を濃くしていく。
 ぼ……ぼ……ぼ……ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼぼぼぼぼ——―。
 ええい、ままよ!
 私はスクーターへの未練を振り切って、50メートルほど離れたところに見えた木の下に向かって走った。
 木の下に飛び込んだと同時に、雨が本降りになった。
 夕立特有の埃っぽい、しかしアスファルトのそれとは少し違う匂いが、私の体を包み込む。
 ずおー————————―ん……。
 滝のような雨。視界数メートル。雨が生む地の底から響くような音。地面から伝わる振動。
 何もかもが生まれて初めての体験だった。
 逃げ込んだ木も、生まれて始めてみる木だった。高くはないようだが横に広く、厚く重なり合っている枝や肉厚の葉が雨にあたって揺れていた。その木に周りの木々たちが絡み合っていて、完全ではないけど、なんとか雨から私を守ってくれている。
「はー、やれやれー……」
 私は一息ついた。荷物が濡れるのはなんとか最小限に食い止めたようだ。
 雨がすべての物を叩き伏せるかのように空から落ちてくる。景色のすべてが輪郭を失って、不規則に揺れていた。
 自然が作る雨宿りの軒先は、雨にその縁を押し下げられつつも何とか耐えているようだった。それでも重なり合った枝葉をかいくぐった雨粒が、ぽたりぽたりと不規則にあちこちから落ちてくる。
 自然の変わり身の早さとか容赦のなさとかに圧倒されてしまった私は、しばらく呆然と荒ぶり落ちてくる雨を見ていた。しかし——
「! ——あっ……しまった。メットが……」
 やらかした。
 ヘルメットをスクーターのハンドルに引っ掛けたままだった。
 あーあ、と内心でつぶやきながら、放り出してきたスクーターの方を見た。
 雨がひどくてよく見えない。
 実は、スクーターを残してきたのは、なにも自分と荷物をとにかく濡れないようにするためだけじゃなかった。雨に当たれば少しはなんとかなるんじゃなかろうかとほんのちょっと期待したからだった。やってきたのが夕立だととっさに思ったから、これはすぐに止むだろうと踏んだのだ。その上雨に打たれてスクーターが冷えてくれたら、また走ってくれるんじゃないかな。せめて目的地に着くくらいの距離は……って。
 読みは当たるかもしれないけど、ぐっしょり濡れたヘルメットを被るのはちょっと勘弁したい。シートはタオルで拭けばなんとでもなるけど、内側が布張りのヘルメットはそうはいかないだろう。自分のやらかしなだけに、この失敗のショックは相当大きかった。
 私は荷物を胸に抱え込んで、その場にへったりとしゃがみこんだ。むろんお尻は地面に付けなかった。
 どうしようか。
 私は折れそうになってる心を奮《ふる》い起こすために、雨が止んでからの行動を考えることにした。
 この先の状況のパターンをいくつか考えてみる。
   1.雨が功を奏して、エンジンがかかった。
   2.結局エンジンはかからなかった。
「1」ならそのままスクーターに乗って目的地に行けばいい、しかし、もしも「2」だったら目も当てられない。私はちょこっとだけ途方に暮れた。しかしこれは最悪のパターンだ。とりあえずそう自分に言い聞かせた。
 用意する「想定」という名のカードは、多ければ多いほどいい。不測の事態をかなりの高確率で回避できるから。これは出身のリリアン女学園高等部生徒会、通称「山百合会」でつちかった経験だ。
 とりあえず「1」のパターンでその先をさらに考えてみる。
   A.ヘルメットの内部までは濡れていなかった。
   B.ヘルメットは内部までぐっしょりと濡れている。
「A」は限りなくあり得ないパターンだけど、私にいちばん都合のいい状況。
 これだったら道交法を守ってヘルメットを着用し、あと数キロの距離を無理させずにゆっくり登っていけばいい。
「B」は、状況としてはいちばん確率が高いパターン。これをもう少し展開させる。
   イ)ヘルメットをかぶって乗っていく。
   ロ)ヘルメットをかぶらないで、乗っていく。
 できたら「ロ」にしたいな、というのが正直なところだ。しかしノーヘルは言わずもがな道路交通法違反。しかし……。
「こんな辺鄙《へんぴ》なところまで、巡回警邏《けいら》なんかしてるかなぁ?」
 私は願望をそのまま口に乗せた。しかし。
 しかし、しかしである。あと数キロは走らなければいけないだろうこの道は、そう言いたくなる道なのだった。なにせ舗装もされてないし、道の脇に生えている木々がまったく手入れされていなくて、さらに外灯も設置されている様子がない。昼ならともかく、夜は絶対にスクーターでだって走りたくない。歩きなんてもってのほかだ。
 ふもとの県道からこの道に入るとき、宿泊先のお寺の山門《さんもん》を確かに確認したけれど、山門から先の道が無舗装だったのと、木のあまりの繁《しげ》りようを見て、本当にこの先に人が住んでいるのか、とても心配になったほどだ。
 入ろうかどうしようか迷っていたら、運よく山門のご近所に農作業に来たという人が通りがかったので、「この先にお寺ありますか?」と訊いたくらいだ。
 その小父《おじ》さんは私をしげしげまじまじと見て何か言いたそうにしていたけど、すぐに山門の中に伸びるこの道を指さして、間違いなくこの道の終わりにお寺があるよ、と教えてくれたのだった。
 ……今なら分かる、あの小父さんの言いたかったことが。
 こんな辺鄙《へんぴ》で寂しすぎる所に、若いみそらの女子学生が入ろうとしていたら、私だって同じ反応をするだろう。
 そんな場所で、今私はひとりさびしく雨宿りをしている。……いや、そんなことはいい。問題は雨が止んでからだ。
 警察の人に遭遇しないことを期待してノーヘルで走っていくか、それともたぶん中までぐっちょり濡れているだろうヘルメットを真っ正直にかぶって走るか。二者択一で、気持ちは前者にかなり傾いているのに、なかなか思い切りがつかない。
 そんなことをグルんグルんと考えているうちに、雨はすっかり上がって、また気持ちいい晩夏の空と空気を取り戻していることに気がついた。
「なんて……」
 なんて極端な土地なんだろう、九州というところは。
 私の正直な感想だった。
 みるみるうちに、濡れていたはずの周りの木々や地面が、再びからりと乾いたそれに変化していく。こんなに乾燥が早ければ、陽炎《かげろう》が立って蒸し暑くなりそうな気がするのにそんなことはなく、反対にこもった熱気が吹き払われて涼しくなっていく。
 ここまでの道中で九州という土地の気候の良さをさんざんと堪能してきたと思っていたが、まだまだ認識が甘かったらしい。
 雨宿りしていた木の下から踏み出した時には、私はすでにこの土地の虜になっていた。
 雨がすごくて気がつかなったが、その位置は、道の反対側の斜面の木がちょうどひらけて、下界が一望できる場所だった。私は景色に誘われて、ふらふらとガードレールのすぐそばまで足を運んだ。
「うわぁ……」
 極彩色。
 その一言に尽きる、雨に洗われてさらにコントラストが上がった世界が、眼下に広がっていた。
 私は言葉を失った。
(すごい。すごい。すごい。……志摩子さん、ここはすごいところだよ)
 やっとの事で脳みそが紡ぎ出したのは、それだけだった。
 上着の内ポケットからけたたましいアラーム音が聞こえて、我に返った。1時間ごとに設定したアラームが鳴りだしたのだった。一緒にバイブレーションも作動して、二重にびっくりするというおまけ付き。
「わ、わ、わ! ……て、もうそんな時間!?」
 いけない、いけない。ここで1時間近くぼんやりしていたことになる。先方が心配してるかも。
 私はすっかり忘れ去っていた水色の相棒の方を見る。ずいぶん放ったらかしにしていたから、もしかして機嫌がよくなってるかもしれない。……反対によけいに機嫌が悪くなってる可能性も捨てきれないけど。
——―と、そこには。
 相棒のすぐ脇には、あまり大きくないややくすんだ赤い色の車と、黒い服を着た人が立っていた。
 もしかして、あの人は。
 黒い服を着ていると思ったその人は、よく見ると、洋服ではなく墨染めの衣を着て、肩に折袈裟《おりけさ》をかけていた。つまりはお坊さんだ。志摩子さんのお父さんと同じく剃髪しているようだ。
 その人は私のスクーターを見下ろしているようだったが、やがて、顔を上げてこちらに視線を向けてきた。遠目でよく見えなかったけど、にこり、と微笑んだような気がした。私はその人に向かって駆けだした。
(もしかしてご住職? でも、でも……確か、ご厄介になるお寺のご住職って確か……)
 女の人だと聞いてたはずだけど。
 小寓寺のご住職つまりは志摩子さんのお父さんから、先方のご住職は女性だから気兼ねはいらないと言われていた。志摩子さんともほんの少し縁《ゆかり》のある人だとも。志摩子さん自身もそんなことを言っていた。つまり、志摩子さんの本当のお父さんの後輩だって。
 剃髪した女のお坊さんを見たことがないわけではなかったけど、そんなにたくさんいるわけではないから、女性の住職と聞いて、私は普通の中年の女の人を想像していたのだ。
(も、もしかしたら、別のお寺のお坊さんかも。例えば用があって来たとか……)
 そんな混乱を抱えたまま、私はその人の所に走っていった。目的の人でなくても、あわよくば、助けを求められるかもしれない。そんな下心を抱えながら。
「二条、乃梨子さん?」
 その人は、やや低めのよく通る声で問いかけてきた。私が名乗る前に言ったということは、間違いなくご厄介になるお寺の関係者だ。
「そ、そうです……」
 私は両手を自分の膝に当てた前傾姿勢でなんとか返事を返した。そんなに大きくないけど、滞在荷物一式を抱えて約50メートルを全力疾走すると、さすがに息が切れる。
「スクーターのナンバーが東京のほうのだったので、そうかな、と思ったんですが。……違ってなくてよかった」
 その人はにっかりと、真夏の太陽のような笑みで私に言った。
(こ、この雰囲気は、誰かに似ている)
 私はとある人物を思い出して、ちょっと引いた。しかしもちろん目の前の人は、そんな私の動揺なんかには気づきもせずに、ニコニコと私に笑いかけてくる。
「佐藤久世《きゅうせい》です。……ごきげんよう、で良《よ》いですか?」
 佐藤久世——。間違いなく、ご厄介になるお寺のご住職だ。どこぞの女子大に通ってる某先輩によく似た名前。
「あ、改めまして、二条乃梨子です。ご、ごきげんよう。……初めまして」
 私は気分的にややくじけながら、ぺこりと頭を下げた。
 年齢的にも立場的にも、まずはこちらから自己紹介するのがスジなのに。いろんな意味で出鼻をくじかれたとは言え、すべてにおいて後手後手になっている自分がちょっと情けない。
 そしてやっぱり目の前の人は、そんな私の心情なんかに気がつく気配もない。
「やぁ。やっぱり『ごきげんよう』で良いのですね?」
 何がそんなに嬉しいのか、女の人にしてはやや豪快にわはわはと上機嫌で笑った。
「え……っとぉ……」
 どう反応していいか分からなくて目を白黒させていたら、ご住職はいたずらっ子のような顔で再びにっかりと破顔し、歯を見せた。なんだかそれがやたらまぶしい。
「すみません。つい最近、とある人からリリアン式の挨拶を教えて頂いたものですから、ついつい」
 なんだろう。この雰囲気は別の誰かにも似ている……て、そうだ、志摩子さんのお父さんだ。……てことは何か? この宗派の住持職《じゅうじしょく》にある人は、こういう感じの人だらけなんだろうか? そう言えばリリアン女学園のお隣さんの仏教校・花寺学院の連中(生徒会のメンバーくらいしか知らないけど)もヘンなヤツが多かった。
 私はぐるぐるとそんなことを考えながら、目の前の人の容姿に目が釘付けになっていた。
 遠目から見た時には剃髪したお坊さんだとばかり思っていたのだが、目の前にいる衣を着て折袈裟をかけた、どこからどう見てもお坊さんな人の頭には、ちゃんと頭髪が存在した。女性のと言うには短すぎる、白っぽい金色の頭髪が。
「二条さん、乃梨子さん?」
 ご住職の声で私は我に返った。
「あ、す、すみません。いろいろあったもので、ちょっと動揺してまして」
 ぼーっと相手を見つめていた言い訳にしては、苦しい。かなり苦しい。
「ああ、夕立。びっくりしたでしょう? 他の地方では、ああいう雨はあまり降りませんからね」
 ご住職は屈託なくそう言うと、晴れ上がった空を少し仰ぎ見る。
「実は、雨が降っているうちに通りがかって、このスクーターを見つけましてね。『車はあれど主人《あるじ》は見えず』だったので、どこかで雨宿りをしているかなと思いまして」
 止むまで車の中で待っていたんですよ、とご住職は続けた。
 視界十数メートルの上に大地を揺るがす大音響の大雨。車がやって来たのに気がつかないのも道理だと思われた。その上私はぼーっと雨を見ながらぐるぐる考え事をしていたわけだし。
「でも、どうしてここにスクーター《この子》を捨てたんです?」
 50メートル先付近から全速力で走ってきた私をその目で見たご住職の疑問はもっともだった。単に雨宿りなら、スクーターごと木陰に飛び込めばいいのだから。
「えっと……。実は、ですね……」
 私は事の顛末を包み隠さず話した。もちろん、がっつりと笑われた。ひとしきり笑われたあとで「それは災難でしたね」と言われても、なんのフォローにもなっていないよと、私は心底思った。
「キー、持ってますか?」
 ご住職が手のひらをこちらに差し出す。私はその手に、スクーターのキーを素直に乗せる。
 人当たりはいいのに、なんとなーく逆らえない雰囲気を持っている人だ。でもそれが嫌な感じはしない。私は大人しくご住職のすることを見ていた。彼女は受け取ったキーをスクーターに差し込むと、セルスターターのボタンを押した。
 きゅるるるるるるるるるる………。きゅるるるるるるるる………。
 なんとも情けない音がするばかりで、やっぱりエンジンはかからなかった。
「ふむ」
 ご住職は顔色ひとつ変えずに、屈《かが》んだり、スクーターのあちこちをのぞいてみたりをひとしきりしてから、やがて上体を起こした。
「ダメっぽいですね」
 はぁ、やっぱりそうですか。結局スクーターが完全に故障してしまったことを確認しただけに終わったらしい。私は返事をする気力まで削《そ》がれてしまって、無言でうなずくことしかできなかった。
「そういうことなら……」
 ご住職は赤い車の運転席側のドアを開け、なにやらゴソゴソと漁って一筆箋のような小さなリーフを取り出すと、同じく取り出した筆ペンで何かを書き付けた。
「……こうしておけば、しばらくは大丈夫です」
 スクーターのスピードメーターの上に、これまた取り出したテープでもって、書き上げたメモをぺったりと貼る。
 何を書いたのだろうと思ってメモを覗きこむと、それにはこう書いてあった。
    西勝寺《さいしょうじ》滞在者所有物
    故障中
 達筆。普段から筆で字を書き慣れているのだろう。ペンケースからシャーペンを取り出すみたいに、自然に筆ペン(それも毛筆タイプだった)が出てくるのもその証拠だと思う。
 それはともかく、本当にこんなちいさなメモ書きだけで大丈夫なのかと思ったけど、この道に踏み込んでから約2時間、このご住職以外の誰とも出会わなかった上に、この先にはお寺しかないよという地元の人の話を思い出して、大丈夫なんだろう……と自分を無理矢理納得させた。
「さ、乗ってください。いったんお寺に帰りましょう。あとで取りにくるにしても、とにかく着替えないと。このままでは無理ですから」
 確かに。ジーンズにTシャツとジャンパーな私はともかく、ご住職の衣姿では、力仕事はかなり無理があると思う。
 私はご住職にうながされるままに、赤くて四角いくて小さいけど背が高い四輪駆動車の助手席によじ登った。
「おじゃまします」
「狭い車ですみません。……あ、荷物は後ろに置いてくださいね」
 ご住職は、どうやら助手席に置いていたらしいソフトタイプのアタッシェケースを後部座席に置きながら言った。
 私もそれにならって、さほど大きくはないがそこそこに重い荷物を置く。それとほぼ同時に車が大きな音を立てて動き出した。
「わ!」
 予期していなかった発進による衝撃よりも、タイヤが砂利に足を取られて立てた、空転したような甲高い音のほうにびっくりした。
 赤い四輪駆動車は力強く山道を登っていき、ついにはこの山道の最奥に到着した。
 車で走ればこんなに近いのかと気が抜けるほどの距離ではあったが、雨宿りをした地点からここまでの道のりは、なかなかフリーダムな状態だった。
 道はどんどん狭くなり、舗装されていない道は穴がボコボコあき放題。木々はさらに生い茂る。
 お寺の山門(山に入るときにもあったから、これは内山門《うちさんもん》だと思われる)が見えてきて、私はほっと胸をなで下ろした。仮にスクーターが無事であっても、ひとりではここにたどり着けなかったかもしれない。そう思えるほどの道中だった。
 途中、青っぽい軽トラックとすれ違ったのでそれをまじまじと見送っていたら、地元の人がごくまれに使う程度の、とても狭い裏山道《うらさんどう》があるのだと、ご住職が教えてくれた。その言葉どおり、青いトラック以外は猫の子……いやタヌキの子一匹通らなかった。
 車はゆっくりと、山門の脇にもうけられた車用の通路を通ってお寺の敷地内に入る。入ってすぐは、舗装はされていないけど、きれいに整備された駐車場があった。軽く20台駐められそうな広さがある。
 さらにその奥に続く車一台がやっとのことで通るくらいの細い通路に入り、5メートルほど進んだ場所でご住職は車を停めた。どうやらこの先がプライベートな空間であるらしい。
「足もと、気をつけてくださいね」
 車にキーをつけたまま、ドアに鍵をかけるふうもなく、ご住職はカバンを手にトコトコと建物の方に歩いていく。私は荷物を引っ張り出して両手で抱え、そのあとを追った。
 僧衣の裾を大きくひるがえすことなく歩いているご住職の歩幅は、決して広くはないのにその速度はびっくりするほど早かった。あっという間にご住職の後ろ姿が小さくなっていく。玄関らしき扉までの距離はほんの10数メートル程度なのに、ご住職に追いついたのは玄関口のすぐ手前で、さらに私の息は切れていた。
「ただいま戻りました」
 そう言いながら引き戸をくぐるご住職のあとについて中にはいる。上がりかまちの上に、女の人が膝をついて待っていた。
「お帰りなさいませ、御院家《ごいんげ》。雨は大丈夫でしたか?」
 そう言ってご住職のカバンを受け取った。
 くすんだ梅色の作務衣を着たその人は、明るめの濃い茶の長い髪をゆる~く後ろでひとつにまとめているようだった。化粧もごくごく薄くて、一見20代後半、多く見積もっても30歳にはなっていないように見える。
「ただいま志井《しい》さん。途中でね、二条乃梨子さんと遭遇したので、お連れしました。……乃梨子さん、こちら坊守《ぼうもり》さん。基本的に、ここの管理は彼女に任せています」
「ぼ……」
 私はご住職の言葉にびっくりして、飛び出しそうになった言葉を飲み込んだ。
 まずい。驚くにもほどがある。一瞬出てしまった間抜けな声を気づかれただろうか?  そろりと『坊守さん』と紹介された人を見る。目の前の女性は気にしている様子なんかまったくなく、ふわりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ、二条さん。当坊の坊守役で、志井縁《ゆかり》と申します。小寓寺の御院家さまからお話は伺っていますので、気兼ねなくお過ごし下さいね」
 そう言うと志井さんは、私に向かって深くゆっくり頭を下げた。それで彼女が髪をゆるい三つ編みにしていることが判明した。
「志井さん。乃梨子さんね、たぶん雨に打たれたと思うんですよ。外で雨宿りなさってたので」
 すでに廊下に上がっていたご住職は、一度志井さんに手渡した自分のカバンを再び手に取った。
「……ああ。はいはい。承知しました」
 志井さんが応える。
「じゃ、よろしくお願いします。……乃梨子さん、こっちは庫裏《くり》なので、気兼ねなく滞在してくださいね。まぁウチは堅苦しい決まり事なんてものはありませんけどね。……ではまたあとで」
 ご住職は、首だけかくんと前に落としてこちらに会釈(なんだろうな、たぶん)をすると、またもやトコトコと歩いて、廊下の奥へ消えていった。
 衣姿なのもあって、ペンギンが歩いているようにも見えた。
 ご住職が廊下の向こうの角を曲がった頃、志井さんがゆっくり立ち上がった。
「お部屋にご案内しますね」
「あ、はい。……お世話になります」
 靴を脱いで廊下に上がり、案内されるがままに、志井さんのあとをくっついて歩いた。
 この建物が庫裏《くり》ならば、私はこのお寺に用事がある人や修行などに来た人ではなく、純粋にご住職の一客人として受け入れられたということだろう。かなり古い建物のようだが、質素でこざっぱりとした内部は天井が高めで、下界よりも気温が低めの外と比べても、ひんやりと涼しかった。
 前を行く坊守《ぼうもり》——志井さんを見る。背が高い。リリアン女学園高等部・山百合会の先輩である小笠原祥子さまよりはやや低いようだけれど。
 志井さんの背中で揺れているざっくりとゆるく編んだ長い三つ編みを見ながら、彼女が「坊守」であるという意味をつらつら考えていたら、不意に声をかけられた。
「こちらです。……このお部屋をお使い下さい」
 促されるままに部屋に足を踏み入れて、ぐるりと中を見渡した。
「わぁ……」
 部屋の片隅に置かれた座卓《テーブル》の上に置いてある数冊の本。それが思わず声を上げた原因だった。
「やはり、最初にお気づきになられましたね」
 後ろからご住職のしてやったりといった響きの声が聞こえた。声の方に振り返ると、いつの間にか志井さんの横に、鉛管服《つなぎ》に着替えたご住職がいて、ニヤニヤと笑っていた。
「こ……これ」
 座卓《テーブル》の上に置かれた本。それはあまりに高価で私にはどうしても買うことができず、図書館で借りるにしても閉架や禁貸だったりして閲覧手続きが面倒だったり、そもそも閲覧そのものができなかったりした仏像関連の本たちだった。それがこんなところに無造作に置いてあるなんて。
「私個人の蔵書です。他にもたくさんありますが、とりあえず必要そうな物を置いています。資料は必要でしょう?」
 そう言いながら、ご住職はニヤニヤ笑いをやめない。
 なんて人だ。私が仏像マニアだという情報源は間違いなく志摩子さんのお父さんだろう。そして私がこんな高価すぎる本が買えるわけがなく、かといって簡単に読める環境がないことも知っている。そんな垂涎のブツを出されたら、嫉妬するよりもまず喜んじゃうってことも分かってこんなことをするのかっっ!
「御院家」
 志井さんの窘めるような声が聞こえた。
「ああ、はいはい。……ではまたあとで、ごきげんよう」
 ん? なんだなんだ?
 あまりにあっさりと引き上げるご住職に、矛先をかわされてしまった私の視線は、志井さんと本のあいだをあてもなく往復する。
「とりあえずシャワーをお使い下さい。お荷物を置かれましたらご案内します。タオルも用意してますから、着替えだけで良いですよ」
 つい今起こったことなんかなかったみたいに、志井さんはにっこりと笑って私を促す。
「あ……はい。じゃぁ……」
 私は慌てて着替え一式を出して、それから廊下で待っててくれた志井さんに、内風呂へと連れて行かれた。
 このお寺の人たちは、人当たりはいいけど……。
 なんだか逆らえない雰囲気があるなぁと、風呂へ案内されながら私は思った。
 それが証拠に、私はご住職と会って以来、どうにも、本調子が、出ない。
 シャワーを使わせてもらえたことは、僥倖だった。
 夕立にそんなに濡れたわけではなかったし、濡れたところもお寺に着いた頃にはすっかり乾いていたけれど、100キロメートル近い距離を休み休みとはいえ朝から走ってきたから、私の体は汗と埃にまみれていたのだった。
 私が来てから用意したわけではないようだったから、きっと気を利かせて事前に用意してくれていたのだろう。
 石鹸も新しいものが用意されていた。包みから取り出されたばかりです、と言わんばかりの角もとれていない白い固まりが、たぶん所定位置に置かれて「えへん顔」で居座っていた。私は遠慮なく石鹸の角をちょこっとなめらかにしてやった。
 風呂場から出て手早く服を着た。滞在地でこまめに、お風呂に入ったときにでも洗えばいいからと、必要以上の衣類は持ってきていなかったけれど、「九州ではいきなり夕立で大雨が降ったりするよと」志摩子さんのお父さんや菫子さんから聞いていたから、もしも雨に打たれたときに緊急で着替えるくらいの余分は持ってきていた。まさかこんなに早く使うことになろうとは思っていなかったけれど。
 脱衣カゴに放り込んだ、先ほどまで着ていた服一式(下着も含む)を抱えて廊下に出ると、そこに志井さんが待ちかまえていて、ニコヤカに全部取り上げられてしまった。
「自分で洗濯しますからっっ!」
 言っても無駄だった。それどころかさらにニコヤカにこう告げられた。
「御院家が外でお待ちですから」
 いやいや、そう言われましても。
 そもそもさっき会ったばかりの人に、汚れた服のみならず下着まで洗濯させるとか、失礼にほどがありますからっっ!
 そんなことを思い、さらに半分くらいは口に出して言ってみたのだが、やっぱり相手には通用しなかった。ことさらにニコヤカに微笑む志井さんに、今東京で家(寺)の手伝いをしているであろう人《クリスチャン》の姿を見た。
「今日お帰りになる方を送るついでに、スクーターも回収して修理に持っていく、と申しておりました」
 つまりは、洗濯物という日常の小さなことなんかにかまけていないで、さっさとご住職のところに行け。……ということらしい。私は志井さんに降参の白旗を上げた。ここは大人しく従うのが最良の策かもしれない。
 しかしなんだ。この宗派に深く関連する女性はみんな「必殺・微笑み返し」で自分の我を通す術でも身につけているのか? 私の狭い世界にとって「必殺・微笑み返し」の元祖である志摩子さんを思い浮かべた。
「そういえば志井さんと志摩子さんて、なんだか響きが似てる……」
 そんなことを呟きながらとぼとぼと玄関に行き、靴を履いた。とにかくご住職が待ってるということなので、行くしかあるまい。
 庫裏の玄関から外に出ると、果たしてご住職はそこにいた。いや、「そこ」と言うにはちょっと語弊がある。さっき車を駐めた場所にいた。しかし車が替わっていた。
「あ……れ?」
 さっきの車は確か赤じゃなかったか?
 今ある車は白だし。……というか、後ろがないし!!
 車は白い軽トラックに変化していた。何が起きたのか分からなくなって目を白黒させていると、若草色の鉛管服《つなぎ》を着たご住職が、ニコニコ笑ってこちらに手招きした。
 この人も会って間もないけれど、何が楽しいのか常にニコニコしているなぁ、とぼんやり思う。
 志摩子さん、九州はなんだか不思議空間で不思議な人ばかりがいるよ。
「あの……さっきの車は?」
 ご住職にトコトコ近づきながら素朴な疑問を口にすると、鉛管服に着替えてさらに女性には見えにくくなったその人は、笑みを崩さず無言で右の方を指さした。指された方の20メートルほど先の開けた場所には木造のボロ屋があり、その中に例の赤い車がつくねんと鎮座していた。なるほど、車庫があったのか。
「乃梨子さん、悪いんですけど、荷台に乗っていただけますか?」
 はい? 荷台?
 まるでそこに座席があるような言われ方だったけれど、視線を移せばそこは紛う事なき単なる荷台で、幅広でぶ厚い2メートルくらいの板が1枚と、太くて灰色に変色した、いかにも使い込まれてますっていうオーラを発しているロープが一巻き置いてあるだけだった。
 この荷台のどこに乗れと?
 ご住職の方を振り返ると、パッキン頭のお坊さんは微笑んで言った。
「すみませんねぇ」
 いや、その顔はぜんぜんすまないなんて思ってない顔だ!
「今日お帰りになる人を車屋さんに送っていかないといけないので。ついでに乃梨子さんのスクーターも回収して同じ車屋さんに預けようと思ってまして」
 それはさっき志井さんからも聞いた。
 確かにそっちのほうがついでついででエネルギー効率もいい。しかしお客さんにスクーターをこの荷台に上げる手伝いをさせるわけにもいくまい。それ以前にスクーターは私の所有物だからして、それの回収をするべきはご住職ではなくて私であるはずなのだ。
 わかりました。ええ、腹を括りましたとも。
「わっかりました! 座ってたらいいですか?」
 言い終わるが早いか、私は軽トラックの荷台によじ登る。
「門を出る頃までに寝っ転がってもらってたら助かります。気をつけて運転しますけど、ボコボコ道なんで、うっかり撥ねて落ちたら痛いですからね」
 ご住職が運転席に乗りながら言った。
 いや、落ちたら痛いではすまされないと思う。
 車はするりと歩き出した。濃い緑の葉と白とか紫とかピンクとかの花をびっしりつけた、細い枝がたくさん天に向かって伸びて壁を作っている細い通路を進む。
 荷台の先住人である木の板に跨って寝っ転がれる環境を整えていたら、お寺の表側に出た。本堂の御拝口に小さな荷物を持った誰かが立っている。あの人が例のお客さんだろう。
 ……というか、ちょっと待って、おい……。
「あれー? 乃梨子ちゃん? どーしてここにいんの?」
 ……。
 それは私が訊きたい。どーしてアナタはこんなところにいるのかと。
 この暑さにもかかわらず透き通るような白い肌、色素の薄い髪と目、そして日本人離れしすぎた彫りの深い顔。他家薔薇OGの先輩曰く「アメリカ人」な我が白薔薇家OGがトボけた顔でこっちを見上げている。私といえば、たぶん目の前の先輩以上に間抜けな顔で相手を見ているんじゃなかろうか?
 佐藤さんちのお客様が佐藤さん?
 ……いやいや、そんなボケをかましている場合ではない。
「えっと……ご、ごきげんよう? 聖さま」
「はい。ごきげんよう?」
 お互いに語尾が疑問形になっちゃったけど、とりあえずいつものごあいさつ。こういうとき、いくら超ローカルルールでもスタンダードな行動様式があるというのは便利です。
「おや。お二人はお知り合い?」
 ご住職の声が聞こえる。見ると運転席の窓から身を乗り出して、私たちふたりをニコニコしながら見比べていた。なるほど、「ごきげんよう」をこの人に教えたのは、この人であったか。
「キュウさん」
 私たちの間の沈黙を破ったのは聖さまの方だった。
「最後の最後で。……人が悪いなぁ」
「はい? 何のことでしょう?」
 苦笑しつつご住職をちょこっと睨め付ける聖さま。肩をすくめつつすっとぼけた声で答えるご住職。なんだか白々しい空気の流れる会話だった。
「でー? 乃梨子ちゃんは? 志摩子ん家《ち》経由でここにお世話になってるのかな?」
 改めてこっちを振り返った聖さまは、いつもの聖さまに戻っていた。
「え……ええ、まぁ。……先ほど来たばかりですけど」
 歯切れが悪い。まさかこんな場所で“天敵”とも言える聖さまに会うなんて。
「課題の資料集めと取材のために……」
「なーるほど。それは大変だねぇ。……一年生だもんね。がんばれー若人」
 呵々《かか》と笑って、聖さまは軽トラックの助手席に乗り込んだ。ほどなく車は滑るように走り始める。私はごろりと板の上に寝っ転がった。
 空がやたらと青かった。
「よーぃキュウちゃん。例のモン、出来上がっとおよー」
 ふもとの町である。車屋である。
 車屋と言っても新車とか置いているいわゆる販売店《ディーラー》ではなく、いやに安い中古車が1台、他には新品の“世界一の丈夫さを誇る”ミニバイクが数台と中古新品部品まで各種取りそろえた自転車が20台近く雑然と並んでいる店……というよりもごくごく小さな工場《こうば》だった。
 ご住職が軽トラックを中に乗り入れて停まると、ご住職と同年代くらいの小柄な男の人が出てきて開口一番に「出来上がってるよ」と言った。
 真っ黒に日焼けした顔と頭に巻いた白いタオルのコントラストがやけにはっきりしている。着ているものが暗めの青の鉛管服《つなぎ》というのも、タオルの白を際だたせているみたいだった。
「本当にありがとうございました。一時はどうなることかと思いました」
 車を降りた聖さまが、お店の人に深々と頭を下げた。つまりは聖さまの車がここに預けられていたということか? ……え? 車?
「いやいやー。こっちは仕事だけん、こんくらい朝飯前たい」
「めったにいじれないタイプの車だったけど、どうでした?」
 とご住職。それに対して店の小父さんは笑いながら
「んー? ……面白かったばーい!」
 そんな会話を脳みそのどこかでぼんやりと聞きつつ工場の中を見回していると、とても見慣れた水色の物体が目に入ってきた。
「あー!!! こ、こんなとこにっっっ!!!!」
 私の相棒がっっ!!!
「ああ、やっぱりここに回収されてましたね」
 私が出した大声とは対象的な、のーんびりしたご住職の声が聞こえた。
 そうなのだ。
 この店に来る途中、もちろん例の場所を通りがかったのだけど、私の相棒は当然のようにそこにはいなかった。
 焦ったね、マジに。
 この旅の“相棒”だけに、スクーターがなければ目的自体がすべて達せられないだろうし、なによりもプレゼントしてもらったものが盗難に遭うなんて、タクヤくんたちになんて言ったらいいんだろう? って本気で、光が地球の赤道上を7周半するよりも早く、思ったのだ。
 だのに「これでいっときは大丈夫」と太鼓判を押した当の本人ときたら、「まぁこんなこともたまにはあります」なんてしれーっと曰《のたま》ったあげくに、探す努力もしないで、涙目になって慌てている私を荷台に載せたまま、無慈悲にもトラックを発進させて、ここまで一度も停まらずに運転してきたのだ。停まらなかったのは信号がなかっただけという話もあるけど。
「西勝寺て書いてあったし、動かんごとなっとったけん持って帰ってきたとばってん、いけんやったかね?」
 店の小父さんは私の剣幕に押されてか、少したじろぎながら訊いてきた。
「ああ、いや大丈夫。途中すれ違いましたからね、カメちゃんが回収してくれるだろうと踏んでましたよ?」
 ご住職はしれっと言う。そういうことは、持ち主である私にも言っておいてて欲しい。余計な心配をしたじゃないかっっ!!
 ……ん? すれ違った??
 そう言えばお寺に行く直前に青い(というか、煤けた濃い水色の)軽トラックとすれ違ったっけ。あれを運転してたのがこの小父さんだったのか。……て、やっぱりその時に言っててくれてたらいいんじゃないっ!
「ちろっと見たばってんが、プラグだけやのうてエンジンもヘタれちょっとたいねー。でさ。動くごとなるにゃ、ばしーっと直さんといけんが、どげすんね?」
 カメちゃんと呼ばれた小父さんは、私とご住職、どちらに言うともなくそう言った。しかしなんて言ってるのか、ほとんど分からなかった。
「エンジンがかなり悪い状態なので、本格的な修理が必要だけど、どうされますか? ……とお訊ねです」
「えっと……どのくらいかかりますか?」
「時間な? 金な?」
 頭の上から剛速球で投げつけられるような勢いの強い言葉が返ってきた。うっかり大声を上げたのが小父さんの気にさわったのかと思ってちょっとあたふたしていると、聖さまが私の耳元で、こっそり助け船を出してくれた。
「だーいじょうぶ。このあたりの人たちは、みんなこんな感じで喋るから。別に怒ってるわけじゃないよん。……私も最初はびっくりしたけどね」
 ふひひ、と小さな笑い声が遠ざかる。
「高校生のときから親元を離れて頑張ってる苦学生さんなんで、できるだけ安く修理できると、すごく助かりますよ、きっと」
 出た! 佐藤聖さまの『必殺・口先八寸』 しかし修理費が安いに越したことはない。なにせ余分なお金は持っていないのだから。……私が苦学生かどうかはさておいて。
 小父さんは聖さまに向かっていった。
「ほぉん? 知り合いな?」
 それに対して聖さまはにっこり笑ってうなずいた。
「ええ、学校の後輩です。……ここでは偶然会ったんですけどね」
「突貫修理でどれくらいの時間かかりますかね?」
 ご住職が横槍を入れる。
「来週にはお帰りになるので、できたらそれまでに上げてくれると助かります。それと代車もあるとうれしいですねぇ」
 こちらも聖さまに輪をかけて、さも当然のように無理難題を小父さんに言う。しかし言われた小父さんは、そんなことを言われ慣れているのか、無理難題を言う二人に負けず劣らずへらりと笑って言った。
「しっかり見らんと分からんばってんが、部品の調達もあるし、エンジンの調整もせないかんし……やっぱ1週間くらいは見てもろとる方が間違いなかかな」
 この瞬間に、この旅の目標達成率が低いだろうことが決定した。……ああ阿弥陀さま、乃梨子はこれからどうしたらいいのでしょうか?
「ま、代車は貸しちゃろうたい。タダでいいが。返すときガソリン満タンにしちょってくれたらっさ」
 小父さんが仏さまに見えてきた。手を合わせて拝んでもいいですか?
「あそこにある黄色いヤツばってん、良かね?」
 小父さんの指さす先には、黄色いけれども新聞屋さんが使っているタイプのミニバイクがぽけーっと立っていた。
「明日の夕方までに嬢ちゃんに合うよう調整しとくき、取りに来ない」
「あ、ありがとうございます!」
 私は体をほぼ直角に曲げた。明日の予定は別の日にねじ込むしかなくなったが、それでも“足”が確保できたのだからそれで十分だ。借りれるバイクもいわゆる“世界一頑丈な”ヤツだし、なんとかなるだろう。
「乃梨子さん、運転歴は?」
 ご住職が訊いてきたので、正直に「最近免許をとったばかりです」答えた。
「……だそうです。カメさん、よろしくお願いしますね」
「おお。任せときない」
 言いながら小父さんは工場の奥へと入っていき、私たちを手招きした。
「おねーちゃんの方の引き渡しを忘れちょった。そろそろ出らんと、今日帰るとやろ?」
 小父さんの後を追って私たち3人も工場の奥へと進んだ。そこには小さくて丸っこい車が置いてあった。ボディーが赤くて、屋根がアイボリーホワイトの小さな車だった。M駅周辺なんかでもときおり見かける外国製の車だ。外国製というところが聖さまらしいなと思った。
「わー。さらに磨いてくれたんですか?」
 聖さまが感嘆の声を上げる。
「こりゃサービスたい」
 小父さんが照れたように笑う。
「奥さんに叱られますよ、あまり趣味に走りすぎると」
 ご住職が口の端を上にゆがめて、笑いながら言った。
「なーん。いらんごつ言わんでよか! それよかホレ、おねーちゃん。預かっちょったシールも貼っちょぉきね」
 小父さんは車のおしりの方を指さす。運転席後方角のリアウインドウの真下に、ごくごく簡単に意匠化された白い薔薇が張り付いていた。
 ……赤い車に白い薔薇か……なんてわかりやすい人だろう。いや、この事実を知ったのはつい最近だけど。
 そんなことを思って聖さまの方を見ると、この車の持ち主は目を細めて白い薔薇が貼られた赤い車を見ていた。まあ、本人がシアワセなら、それでいいよ、うん。
「本当にここまででいいんですか?」
 車屋さんがあった町を出て約40分。大きな国道に出てすぐのところにあるコンビニエンスストアの駐車場に駐めた2台の車のあいだで、ご住職は聖さまに言った。
「ええ、あとは分かります。高速道路の入り口《インター》までほんのちょっぴりですし。……本当に何から何まで、たいへんお世話になりました」
 車に乗ったままの聖さまが、ご住職に向かって頭を下げる。
「いえいえ。こちらも楽しかったですよ。……例の件、忘れないでくださいね」
 ご住職は「にや」、と笑って聖さまにウインクをひとつ投げた。
「やだなぁ、忘れませんよ。そんなことしたら、間違いなく蓉子に叱られます」
 聖さまの言葉を聞いて、ご住職が軽快に笑う。
「そうですか。では、お待ちしてますから」
「はい。その折はまたよろしくお願いします。……じゃ、これで」
「ごきげんよう」
「……ごきげんよう」
 照れたように聖さまは笑い、それから私に視線を投げてきた。
「乃梨子ちゃんも、またね」
「あ、はい。ごきげんよう。お気をつけて」
 反射的に最敬礼であいさつを返した。リリアン女学園高等部は生徒同士の上下関係が厳しいが、生徒会である山百合会に所属していた私たちの縦関係はさらに厳しかったのだ。
 聖さまは軽く手を振り、ぷわん、と小さくクラクションを鳴らしてから車を発進させた。私たちは、聖さまの赤い小さな車が見えなくなるまで見送った。
「さて、帰りましょうか。今日はいろいろあって疲れたでしょう?」
 ご住職がほんわりと笑う。
 目の前の人の白っぽい金の髪に、暗くなりかけた夕日が照り映えてとてもきれいだったけれど、しかし光が柔らかくなったせいなのか、それとも私自身が心のどこかで聖さまがいなくなって寂しいと感じていたからなのか、それまでの性別不詳年齢不詳で下手をすれば三十代前半くらいにしか見えなかったご住職の顔が、年相応の中年女性に初めて見えた。
「志井さんが晩ご飯を用意して待ってます。急いで帰りましょう。……あ、その前に買い物をしないと。乃梨子さん、何か欲しいモノはありませんか? お菓子とか」
 ご住職はそう言ってコンビニエンスストアにのしのし入っていく。
 ……完全に小さい子供扱いだなー。も、いいけど。
 遠ざかる背中に心の中でツッコミながら、私はご住職を追ってコンビニエンスストアに入った。
(to be continued)
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