へっぽこ・ぽこぽこ書架

二次創作・駄っ作置き場。 ―妄想と暴走のおもむくままに―

『マリアさまがみてる』二次創作SS

狗尾草《えのころぐさ》 フラグ付き作品・使用上の注意をよく読んでご利用下さい

狗尾草《えのころぐさ》 本文

1.

 私、水野蓉子が大学《学校》から戻って着替えるために寝室に入ると、ベッドの上でいつものように恋人の佐藤聖(本人いわく“同居人”)が「お夕寝」をしていた。
 この春めでたく、私たちふたりは同じ大学の大学院生になったのだけれど、大学院には大学とはまた違う忙しさがそこにあり、二人して、てんてこ舞いの日々を送っていた。
 私のように繰り上がり(もちろん試験は受けた)で院に残った者とは違い、外部からの受験で私と同じ大学の院に編入してきた聖は、それまでいたリリアン女学園——聖はそこに、実に18年間もかよっていた——のようなおっとりとしたのどかな楽園とは180度近く違う世界に自分を順応させようとがんばっているのが、私の目にもはっきり見てとれた。
 研究室というものはなかなかに閉鎖的な空間で、所属している学生や主宰教授の性格によっては、新参者はいっとき肩身のせまい思いをするものだ。聖は自分の居場所を得るのに必死なのだろう。朝早くから大学に行くこともあるし、帰りも遅い。そうでない日はひたすら机や資料に向かっていることが多かった。
 私が知っているリリアンにいた頃までの、悪く言えば調子がよくてチャラんポラんな、良く言えば力が抜けて気さくな、佐藤聖とはまるで別人のようだ。……もっとも、聖は『やるときはやる』タイプの人間で、その集中力は私や共通の親友である鳥居江利子も足元に遠く及ばないほどなのだ。ただ、なにごとにも面倒くさいのが先にたっているから、その集中力はよほどのことがないと発動しないし長続きもしないのだけれど。
 それはともかく。
 だからだろうか、5月のゴールデンウィークが終わったくらいから、大学に行かない日の夕方は、こうして眠っているのをよく見かけるようになった。
 時には息をしていないんじゃないかと心配になるほどの深い眠りを2~3時間。それが最近の聖の習慣だ。
 夜にもう少ししっかりと眠ればこんな時間に寝なくてもいいんじゃないかと私的には思うのだが、しかし当の本人いわく、『夜中のほうが無駄な音がなくて作業がはかどる』のだそうだし、なにより大人の恋人同士(こういうときだけ“同居人”は「恋人」という名に変化する。まったくもって自分勝手だ。まぁ今に始まったことではないけれど)がベッドの中でやるであろうことは、『この睡眠のおかげできっちりやれるんだからいいじゃーん。』……と、ある時チェシャネコのように「キシシ」と笑いながら言い放ったので、私はあきれて「好きにしなさい」という気になってしまい、今はもう聖のやりたいようにさせている。
 なんと言っても、まずは平和な共同生活をいとなむことが、お互いのささやかなシアワセ(むろんそれが何を指すかは、未《いま》だお互いに意見の一致をみない)を守る手っ取り早い方法なのだ。
 (——というか、今回はなんだかモノローグが多いわね)
 帰宅して、寝室——ここに私たちのクローゼットもある——の扉をほんの少し開けてみる。果たして室内は暗かった。遮光カーテンがぴっちりと閉じられているのだろう。ということは、聖がお夕寝をしているのだ。
 私は寝室に足音を忍ばせて滑り込む。ベッドのほうに視線をやると、暗がりの中になだらかな山脈のシルエットができていた。音がしないようにクローゼットを開け、手早く室内着に着替える。夕食はなにを作ろうかしらと考えながら、先ほどまで着ていた服——今から洗濯機に放り込まれる運命にある——を手にし、寝室を出て行く前にいつもそうしているように、眠っている聖に視線を転じた。
「っっ……!」
 そこにあるものを認めて、驚きのあまり、私の体はビクンと跳ね上がった。誇張でなく、3~4センチメートルは飛び上がったと思う。
 聖が作る山脈の上に、ちらりと何かがふたつ鈍く光り、ずり……、と黒い固まりが動いたのだった。
 体がすくむ。人間、脳みそが理解できないなにかを感知すると、まずは警戒心とか恐怖心がわき上がってくるものらしい。私はじりじりと寝室の扉のほうに移動する。聖の上の光るふたつの物体は、じっとこちらを見ている。
 ……ん? 見ている?
 そう。私はそれがこちらを見ているのだと、直感した。
 ということは、なにか動物がいるということか?
 私は意を決し、足早に動いて寝室の扉を開け放った。電気をつければよかったのだけど、やれたことはそれだった。聖の上にあるものが危険なもの——たとえば大きなヘビとかトカゲとか——ならば、とっさに逃げられるよう本能的に動いたのかもしれないと、あとから思い至ってすごく反省したが、その時私ができたことは、それだけだった。
 開けた扉から、初秋特有の柔らかい夕方の光が差し込んで、寝室はそれなりに明るくなる。
「……ん……まぶ……。よっこ……帰ったのー?………」
 寝トボケた間抜け声を発する聖を、目をこらしてよく見ると、聖の上にあまり大きくないネコが1匹。しがみつくようにして乗っかっていた。そしてそれは、こぼれ落ちそうなくらいに目を見開いて、私を凝視していたのだった。
「まったく、蓉子はあわて者なんだからー」
 ぎゃははは、と聖の笑い声がリビングに響く。体を折り曲げて、床に前髪を触れさせながら笑い転げている。その胡座《あぐら》をかいた足のあいだには、件《くだん》のネコがちょこんと収まり、きょとんとした顔で聖を見上げていた。
「……で? そのネコはどこから拾ってきたのかしら?」
 私は、なんとなくデフォルメされたタヌキを思い出させる色と柄《がら》のネコを指さしながら、聖に訊いた。たぶん苦虫をつぶしたような表情《かお《》になっているだろうことは、鏡を見るまでもないだろう。疑心暗鬼にかられてまさに鬼——実はネコだったのだが——を見たなんて、とにかくバツが悪い。
「いやぁ……拾ってきたんじゃないよ。っくくくく……」
「ちょっと。そろそろいい加減にしてちょうだいよ」
 ……まったく、笑いの波はいつ引くのか? 今日は少々しつこくないか?
「……拾ったんじゃないってことは、つまりは、預かってきたってワケ?」
「うん、そう」
 ちょい待て、こら。
「このマンション、動物飼育は厳禁なんだけど」
「え? ……そーだったっけ?」
「…………あなたねぇ……」
 その事項、4ヶ月前に部屋を借りるとき、不動産屋で、私と一緒に、確認した人は、どなたでしたっけ? そんな一連の言葉が仲良く手をつないで頭の中を通りすぎていったが、口に出しては言わなかった。その代わり眉根がぎゅぎゅっと寄る。
「この場合の動物飼育って、永年だけじゃなくって、短期の預かりも不可だってことなんだけど? だから飼い主に——」
 返してらっしゃい。……と言おうとしたとき、聖が膝の上のネコを抱き上げて、愛おしそうに頬ずりしたのが目に飛び込んできて、私は思わず言葉を飲み込んだ。
 ネコに頬ずりしている聖は、そのままとろけて流れ落ちそうな表情《カオ》で、でれでれ笑いながら言った。
「まぁまぁ。法律家センセイのご高説はもっともだけどさ、そんなに四角四面に考えなくてもいいんじゃない? たった4日間だけなんだもん」
「……まだ『卵』よ。さらに先生でもないわ。お世辞はよしてちょうだい」
 私は、ぴしゃりと言い放つ自分の声を聞いた。
「そのたった4日間だけでも、もし管理人さんや大家さんに見つかったら、即刻退去しないといけないって条項は、お読みにならなかったのかしら?」
「……そだっけ?」
「そうよ」
 聖ののんきさに私はイライラしていた。しかし聖はそんな私に気がつきもしないで、相変わらず間抜けた笑顔をネコにも振りまいている。それが私のイライラをさらに増長させる。
「まーまー。要は見つかんなかったらいいんでしょ? この子ほとんど鳴かないって話だし」
「……で? そのネコの飼い主さんはどうしたのかしら?」
 イライライラ。
「この子ね、研究室の先輩トコの子なんだ。先輩はちょっと旅行中なんだけど、いつも来てもらってるペットシッターさんとスケジュールが……まぁ、ガチ合っちゃって、それで様子を見に行ける有志が交代で見に行ってたんだよね」
 聖は相変わらずヘラヘラヘラとしゃべっている。
 そうか、この顔はお気に入りタイプの女の子に愛想を振りまいている時とほぼ同じ表情だわ。
「でも、先輩の家って、かなり遠くてさー、だんだんみんな厳しくなっちゃって。それで先輩にメールして許可もらって……」
 私のイライラはどんどん積もっていく。語気がだんだん荒くなる。
「私に相談なく連れて帰ってきたってワケね」
「だって。相談したら反対したでしょ? 賃貸規約を盾にとって」
「……」
 つまりなんだ。さっきのは「すっトボけ」だったというわけですか。そうですか。
 ネコが聖の膝によじ登る。聖はネコをのぞき込む。ネコも聖をのぞき込んで、ちっちゃな前肢《まえあし》で聖の頬をそろりと撫でた。
 イライライラィ……。
「蓉子」
「何よ?」
「嫉妬してんの?」
「なっっ……!」
 何を根拠にそんなことを言うのか、コイツはっっ!
「そんな顔してるー」
「…………」
 聖は心底楽しそうにコロコロと笑っている。その顔を見ていると、なんだか自分がすごく心が狭い人間に感じられてきて、なんだか一気にすべてがどうでもよくなった。
「聖。ホント4日間だけなのね?」
「うん。正味3日間ってところだよ。4日目には先輩ん家《ち》に連れて帰るし」
「……わかったわ。今から連れて帰るにしても、今度はあなたの帰りが遅くなるしね」
「やった」
「ただし、面倒はあなたが責任もってみるのよ。私はいっさい手を出さないから」
「うん。ありがとう。愛してるよ、蓉子」
「……おべっかはいいから」
 聖はうれしくて仕方ないって顔をしている。私はその顔を見て、つい「まぁいいか」という気になってしまう。しかしここで情にほだされてはいけない。私はことさらに無関心を装ってお説教口調で続けた。
「ところでその子、トイレのしつけはできているの?」
「うん、もちろん。元の家と環境を似せるために、寝室のすみっこに置いてるよー」
「ふぅん……そう。……で? ごはんは? 何を食べるの?」
  そう訊いた時。聖があきれたように私を見た。
「……よーこさん」
「……なによ?」
「なんだかんだって、ネコ 構いすぎです。私に任せるなら、そのあたりの質問って不要だと思うんですが?」
 一瞬にして、頭に血がのぼった。
「馬鹿ね! ネコのごはんじゃなくて、私たちのごはんのことよっっ!!」
 聖の的を射た指摘に、ついつい声が大きくなる。そのとき私は自分の本音に思い至った。
 
 そうか、私、このネコに嫉妬しているんだわ。と。
 そんなわけで、期間限定のちっちゃい居候が、我が物顔で部屋中を闊歩することになった。私はネコは嫌いではないけれど、なにせ家に動物がいること自体が初めてのことで、さらにそれがなんだかふにゃふにゃと柔らかかったり小さかったりするものだから、どう接していいかよくわからず、とまどってしまう。
 聖もまた動物を家で飼った経験はないはずだが、高等部時代にリリアン女学園に出没していたネコ——ゴロンタと呼んでいた——をかわいがっていて、時折エサを与えたりしていたし、動物もののTV番組、それも娯楽的ものではなく、CSなんかで放映されている科学番組的なものを細かくチェックしてはよく見ているので、私よりもよっぽど動物の生態には詳しいらしい。その割には名前も顔かたちもなかなか憶えないけれど。そういった矛盾を抱えているのも、佐藤聖らしいと言えばそうなのかもしれない。
 それはともかく。
 聖いわく、このネコは年齢の割には小さい、ということだ。たぶんこの情報は、飼い主からの受け売りなのだろう。そして、その大きさに比例して、とにかく食べる量がすくなかった。ドライタイプのキャットフード、通称カリカリを、あまり大きくないスプーンに2杯。それもわずかだが食べ残してしまう。こんなにも食べなくていいのだろうか。
 そんな私の心配をよそに、ネコはエネルギーの固まりのように、聖を相手に延々と遊ぶ。
 どったんばったん、どったんばったん。
 ネコを見る聖の様子から何となく想像はできていたけれど、聖の、ネコのかわいがりようは相当なものだった。
 飼い主の家から持ってきたというネコ用トイレ、食器類は言うに及ばず、ネコを遊ばせるためのおもちゃも大量に持ち込まれていた。どうやら我が家に戻ってくる途中で買い足したものもかなりの量があるらしい。
「らしい」というのは、そのことを聖の口から聞いたわけでも白状させたわけでもなく、単に、どう見ても袋や箱から「出したばかりです」といった風情の新品のおもちゃが部屋のあちこちに転がっていることと、それを証拠づける袋や厚紙が、ゴミ箱の容積をかなりの割合で圧迫しているのを見つけてしまったがゆえの推測だった。そしてほぼ間違いなく、この推測は当たっているものと思われる。まぁなんだ。聖はこういったことを隠しておこうとかあまり考えない、あからさまな性格なのだ。
 床にちらばったおもちゃは、それだけで十分にネコの遊び心に火をつけるものらしい。聖とネコはふたり——いや、ひとりと一匹——で、手を変え品を変えおもちゃを変えて、ごろんごろんと転げ回って遊んでいる。
 まったく、どちらがネコか子供かわかりゃしない。
 夕食をはさんで前と後《あと》、さほど広くないリビングいっぱいを使って、聖とネコは暴れまくっている。
 どったんばったん、どったんばったん。
 とにかく埃《ほこり》が立って仕方ないし、それ以上にふたり——ひとりと一匹——が起こす振動を、階下の住人にとがめられやしないか、それがゆえにネコが他の住人に見つかるのではないかと、私はひとりでずっとハラハラ・イライラしどおしだった。
 夕食の後片付けをするために食器をシンクに運んだところで、またふたり——ひとりと一匹——のどったんばったんが始まると、家の中の騒々しさに、私はなんだか精神的にぐったりとしてしまった。
 この騒々しさがあと丸2日は続くだろうことを考えると、正直気が遠くなる。ネコの滞在中は実家に帰らせてもらおうかしらと、夫に非があるときの妻の常套句のようなことまで頭に浮かぶ。しかし私が本当に実家に帰ったとしても、だからといって聖は態度を変えたりしないだろう。それどころかこれ幸いに、ネコとの蜜月を楽しむに違いないのだ。
 そうなるときっと、このどったんばったんはさらに規模を増すに違いない。確実にネコを(短期とはいえ)飼育していることがご近所にばれてしまう。
 ダメだダメだ。私というストッパーがいないと、やっとのことで探し当てた優良物件が泡となって消えてしまう。
 私は実家に帰るという考えを、生ゴミとともに、ゴミ箱の中にほうり込んだ。
 自分の方向性(スタンス)は決まったものの、この騒動にいつまでもつき合ってはいられない。私は夕食のあと片付けをすますと、自分だけインスタントコーヒーを入れ、それが入ったマグカップを手に、共同の書斎に逃げ込んだ。私の意志はきっちりと態度で示しておかなければならなかったし、それ以前に、急ぎのレポートの提出が、2日後に控えているのだった。
 書斎に引きこもって小一時間も経っただろうころ、私はいつの間にかリビングの喧噪が鳴りをひそめ、いつもの静かな我が家に戻っていることに気がついた。
 椅子から立ち上がって、冷めたコーヒーが半分以上入っているマグカップを手に、そっと書斎の扉を開けて外をうかがい見る。短い廊下の向こうにあるリビングは、メイン照明の白い蛍光灯が消され、照度が落とされた間接照明の電灯色《アンバー》で満たされていた。
 聖とネコは遊び疲れて寝たのだろうか?
 私はマグカップを持ったまま、足音を忍ばせて、私の愛する穏やかなセピア色の空間にそっと移動した。
 聖とネコはリビングにはいなかった。しかし聖の居所はすぐにわかった。キッチンからコーヒーを淹れる香りが流れてきている。私はその香りに釣られるように、そちらの方へ歩を進めた。
「あ、蓉子。一段落ついた?」
 聖はそこにいた。そしていつものように「にっかり」と笑いかけてくる。
 調理台の上では淹れたてのコーヒーが、私を釣った香りと一緒に温かそうな湯気を上げていた。
「もうひと落としするから待っててー」
 聖はコーヒーに向き直った。コーヒーを入れるときだけはいつも真剣だ。伏せたまつげにやや長めの前髪がかかって、ただでさえ彫りが深くてきれいな顔が、さらに美しくなる。
 私はその姿を見るのが好きだった。
 聖の手が、素早く動いてドリッパーを取り上げる。それをシンクの中に置いて、ほっとした表情でこちらを向き、手をさしのべてきた。
「カップ。ちょんだい」
 カモン、カモン、と聖の指先が催促する。私は肩をすくめて、自分の手に持っているカップを渡した。
「リビングで待っててよ」
 聖が笑いながらそう言ったので、私はその言葉に甘えて、再びリビングへと戻る。いつもの場所に座ると、聖がいつも座っている薄っぺらい座布団の上に、ネコが死んだように横たわっていた。もちろん「死んだように」は喩《たと》えであって、その実は単に熟睡しているだけだ。白っぽくて柔らかそうなお腹がゆっくり上下している。
 しかし、何と形容していいのだろうか、この状態は。
「おまたせー」
 のんきな声が聞こえる。声の方を見ると、聖がコーヒーと半面をチョコレートでコーティングした麦芽入りビスケットを箱ごと皿に盛りつけ(?)て持ってきた。ビスケットは聖と私の共通のお気に入りだ。あまり甘くないのがいいし、何よりコーヒーによく合うのがいい。
 聖がコーヒーを注いでくれるので、私はビスケットを皿の上に並べる。とりあえず一人あたり3枚。これ以上食べたかったら、あとは自分で出すべし。『佐藤・水野共同体ルール その8』くらい。ルールとしてはあまり重要事項ではない。
「おー。よく寝てるなぁ」
 聖がネコに視線をやり、コーヒーを飲みながら目を細めた。
「これだけ遊ばせておいたら、たぶん夜中じゅう寝てるんじゃないかなぁ」
 聖ののんきな言葉にややあきれながら、私は思っていたことを口にした。
「私は気が気じゃなかったわよ。いくら防音耐振がいいマンションといっても、限度というものがあるでしょう?」
 壁や窓からの外音はシャットアウトできても、建物内部の音はあんがい響くものだから。
「大丈夫だってー。蓉子は心配性よね」
 いつもの台詞を聞く。いいかげん聞き飽きてはきたけど、事実だから仕方ない。もっとも、心配性の種はもっぱら聖がまき散らしているのだけども、本人にはその自覚はない。
 私は咳払いをして、もうひとつ思っていることを口に乗せた。
「ところで、ネコ、この状態で大丈夫なのかしら?」
 マグカップを手にとってコーヒーを一口に含むと、ふわりと芳醇な香りが鼻の奥をくすぐった。今日も聖のコーヒーは絶好調のようだ。
「……その、なんというか、こんなに伸びるものなの?」
 コーヒーカップ越しにネコを見る。小さかったはずの生き物は、びろ~~~~んと前後に伸びきって、最初に認識した大きさの2倍ほどにもなっていた。
「あれ? ネコがこういうふうになっているの、見たことない?」
 珍しいこともあるもんだという顔をして、聖は私をのぞき込み、そしてネコをそろりとなでた。ネコはそれに反応してか、全身にちょっと力がこめてさらに伸びをし、その状態のまま目覚めることもなく、またくたりと弛緩した。なんだか子供の頃に買ってもらって大事にしていた、くたくたした胴長犬のぬいぐるみのようだ。違うところと言えば、ぬいぐるみはいつの時も目を見開いていたってところだけ。
 ネコは先ほどからヒゲのひとすじほども目を開かない。聖の言うとおり熟睡しているようだ。
「残念ながら、初めてよ、こういうの見るの」
「へぇー」
「そもそも、ネコを飼ったことがないんですもの。知らなくて当然よ」
「それは失礼」
 ……なんだかむかつく。私が知らないことがあるのがそんなにうれしいのか。ひがみだって分かっているけど、なんだかむかつく。
「ネコって2種類いてさー」
 聖は私の苛立ちなんてまったく気がつかないで、眉をハの字に下げた間抜け面で、のほほんと説明してくれる。
「まるーって丸くなったまま眠る子と、熟睡するとびろ~~~んって伸びきっちゃう子がね。この子はびろ~~~んって伸びるほうみたい」
「人に飼われていて危険がないから、こんなふうに無防備になれるのかしら?」
 ふと思いついたままを口にすると、聖が「ああ、そうか」ととても腑に落ちた顔でこちらを見た。
「ゴロンタはどれだけ日だまりが気持ちよくても、絶対に伸びて寝たりしなかったもんね。なるほど、そういうことなのかもね」
 つぶやくようにそう言うと、ふんふんと勝手に納得したまま、自分のマグカップに入ったコーヒーに、ゆっくりと口を付けていた。
 ゆるやかで静かな時間が私たちの間を流れていく。コーヒーの香りと燈色《アンバー》と静寂で満たされたこの空間が、先ほどまでの私のいらだちを洗い流してくれるような気がした。
「ところでさ、蓉子」
 やがて、聖が空のマグカップをテーブルに置いた音がした。
「なに?」
 私は、ずいぶん冷めていたけれど、聖の淹れてくれた美味しいコーヒーをまだ楽しんでいた。そしてそれがまずかった。
 気がつけば、聖の影がすぐそこに迫っていた。とっさにイヤな予感がして、上半身だけでも逃げようとしたが、コーヒーの香りを楽しんでいたちょこっとの間が災いとなって、気がつけば私は背中から、聖の体の中にすっぽりと抱きすくめられていた。
 背中に聖の胸の感触と体温が、じわり、と伝わってくる。
 ぞくり、と何かが全身を駆けめぐる。
 それを悟られまいとして、とっさに全身が緊張した。それもいけなかった。
 ふ、と鼻で笑う聖の息が、私の耳をくすぐった。
「ちょ……やめてよ。私まだ飲んでいるのよ」
 そうは言ってみたけど、すでに私の腰から下は力が抜け始めていた。
「蓉子。今日帰ってきてからずっと、ヤキモチ焼いていたでしょ?」
 聖の少し楽しそうな声が耳元で聞こえる。後ろから半分羽交い締めにされたように抱かれているから、聖の顔は見えなかったけど、聖がしているであろう表情は容易に想像ができてしまう。私が妬《や》いていたのが嬉しくてたまらないって顔をしているに違いないのだ。
「……こぼれるから、コーヒーが」
 私は不機嫌この上ないって声で抗議したが、今夜の聖には通用しなかった。
「そ?」
 そう言った聖は、するりと私の手の中からマグカップを絡め取ると、ほとんど音を立てずにテーブルの上にそれを置いた。実のところ私はもうすでにマグカップを持つのも辛くなってきていて、抵抗するよりもカップを奪われたことにホッとした。
「最近さぁ、蓉子ってば、あんまり相手してくれないから、私ちょっと寂しかったんだよねぇ」
 そう聖は、私の耳元で低くささやいた。その声にさらに下半身の力が抜けていく。それを自覚して臍《ほぞ》を噛んでいると、聖の手がするりと、私が着ているシャツの合わせをかいくぐって、直接肌に触れてきた。
「ッ……!!」
 胸の頂点を指先でなぶられて、息が詰まる。いきなり重力に逆らえなくなるような感覚に襲われる。
「やめて……ネコが、起きちゃうから……」
 私はなけなしのプライドをはたいて抵抗を試みる。聖の言葉は真実なのだけど、それを素直に認めてしまうのは、かなり癪《しゃく》だった。
「大丈夫。朝まで起きない」
「ちょ……やっ……」
 その確信はどこから来るのか。ぜひとも聞かせていただきたいところだわ。
 そんなことを頭の隅で考えながら、私は聖が繰り出す術にはまってしまい、そのまま快楽の海原へと流されていった。

2.

 全身に温かい湯が浸《し》みわたってくる。背中から指の先から足……すべての皮膚から。
 浸透する。
 その言葉がいちばん適切なのではないだろうか。
 頭のどこかでそう思う。
 このまま自分が溶けて、湯と同化するのではないだろうかという錯覚にとらわれる。
 視界がぼんやりとしているのは、自分の頭が朦朧《もうろう》としているからなのか、それとも湯気でこの空間が満たされているからなのか、すぐには判断ができない。
 今、私は、半分浮いたようにして、浴槽の中にいる。
 私をバスルームに抱きかかえるように支えて連れてきて、浴槽の中に浸けたのは、言わずもがな、同居人にして恋人の佐藤聖。
 私はリビングで小一時間ほど、聖のいいように玩《もてあそ》ばれた。
 何も敷いていない床でやるのはイヤだと、どれだけ口を酸っぱくして言っても、聖はまれに私を床に組み伏せることがある。
 はじめての時がそうだったからというわけではないのだろうが、「床で」というシチュエーションは、聖をとても興奮させる何かがあるらしい。
 さらにごくまれにだが、私もそれを利用することがある(今夜なんかはそのいい例だ)。しかし、だからといって甘い顔をしているとどんどんつけあがるのも佐藤聖という人間なので、今夜の私は少しふて腐れたフリをするのも忘れない。
 さてその聖だが、今は浴槽の外で髪を洗っている。ザーザーと流れるシャワーの音が、まるで雨の音のように聞こえる。浴槽のすぐ横でシャワーを使っているにも関わらず、どこか遠くで降っている雨音のように聞こえるから、やはり私の感覚はかなり鈍っているのかもしれない。
 キュ、とやや甲高い音が響き、雨音…いや、シャワーが止まる。
「蓉子……」
 聖の、うかがうような声が聞こえた。私は薄目を開けて、聖を見る。しかしそこには聖はいなかった。
「……——ぃせっと……」
 背中を支えられて、私の体が浴槽の縁から離れる。その隙間に聖は自分の体を滑り込ませてきた。私はまたもや背中から抱きかかえられる格好になる。
「……聖、あなたの胸……」
 私はゆっくりと口を開いた。一度声が出てしまえば、あとは楽に喋ることができた。
「え?……なになに?」
それ、どうしたの?」
 とりあえず私を浴槽に入れ、聖自身も裸になってバスルームに入ってきたときに、私はそれを目ざとく見つけていた。私よりも白くきめの細かい肌に、それはあまりにもはっきりと、そこに存在を主張していたから。
 私は聖の右腕側に体をずらしつつ、それがもっとよく見えるよう、体をひねる。あまり広くはない浴槽の中で、私は聖とL字に近い形に対峙し、それを指でなぞった。
 細くて赤い、一本のライン。
「あ……ああ、ネコにやられちゃって」
 聖はへらりと答える。
「お夕寝する前に風呂に入ってたらさ、ネコが戸の隙間から入って来ちゃって。足が濡れるのも嫌がらないし、『ま、いいか』って思ってたら、縁《へり》にたまってた水に足を取られたらしくって、すべっちゃってね」
 水に落ちかけたんだよね、ネコが。……と、聖は続けた。
 ネコはとっさに身を翻《ひるがえ》して事なきを得たのだそうだが、よりにもよって聖を踏み台にしたらしく、そのときたぶんネコの後肢《あとあし》でざっくりとやられたのだろう、ということだった。
「こっちもびっくりしちゃって、気がついたら血が出ててさぁ。もちろんすぐに止まったんだけどね」
 どこまでも聖はのんきに話す。それが私をまたすこし苛立たせた。
「ひどいネコね」
 湯気が充満しているバスルームに不思議な共鳴が起こり、自分の声ではないように聞こえた。
「なぁに? まだ妬いてるの?」
 聖がまた、微妙に楽しそうな響きを乗せて言う。
 ちゃぽり…と小さな水音を立てて、聖の手が私の乳房に伸びてくる。
「そうね……妬いているわよ」
 私は正直に言った。
「あなたの肌に、こんな傷を付けるなんて」
「しょーがないじゃない? 事故だったんだからさ」
 聖の手が私を捕らえようとした瞬間、私はとっさにその手をつかんだ。
「……えっと……よーこ、さん?」
 聖は動揺と不安が混じったような声を出した。
 なかなか勘がよくてよろしい。でも私は容赦しない。このあたりで少し懲らしめておかなければ、聖はどんどん増長するから。
 私は体をさらに倒して、聖と向き合うような姿勢になると、右手で触れていた赤いラインに舌を這わせた。ほんのわずかだが、鉄の味を舌先に感じた。
「ちょ……ちょ、待っ……ん……」
 聖の体に一瞬、力が入る。ぱしゃん……と水面がやや大きな音を立てた。
「蓉……ちょっと……止め……」
「じっとしてて。治してあげてるんだから」
 私は執拗に傷を舐め続ける。
「野生動物……の、真似……? 今日のよ……こ、やっぱ、どこか————」
 ——どこかおかしい。
 聖は喉から、声ではなく音を発した。
 ——のぼせる、から。
 それでも構わない。
 とにかく、私はその傷がそこに存在するのが嫌だった。
 傷は数日残るだろう。
 それならばいっそ、私が————。
 ————。
 確かに、今日の私はどこかおかしい。

3.

 ネコを飼い主に戻す日が来た。なぜか私もつき合うことになって、その飼い主宅の居間に、聖とふたり並んで座っている。
 飼い主宅はペット可のマンションかと思いきや、大きな河川の土手下にある、こぢんまりとした一軒家だった。
 そうとう古いらしい木造の建屋《たてや》は、全体的に暗い灰色だったが陰気な感じはなく、反対にほんのりと木の温かさをもっていて、なんだか懐かしい感じがした。周囲も同じような家が建ち並び、いわゆる昭和の香りのする、下町然とした場所だった。
 先ほど飼い主に初めて会ったとき、私はその人が男性であることにとても驚いた。それも、格闘技かフットボール系スポーツの選手ではないかと思うほどの体格で、さらに背も高い。浅黒く健康的に焼けた肌に、短く刈り込んだ頭髪。顔のパーツすべてが大きめで、特に目が大きな人だった。引き戸を開けて出てきた彼に、玄関先で上からぎょろりと覗きこまれて、私は思わず一歩下がってしまったほどだ。
 しかしこの家の主《ヌシ》はそんな私の無礼をとがめることはなく、私たちを上機嫌に部屋に招き入れてくれたのだった。
 そういうわけで、今私たちはネコの実家の居間にいる。飼い主の元に帰ったというのに、ネコはなぜか私の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らし続けている。
 大きな体を丸めるようにしながらネコの飼い主が台所から出てきて、使い込まれて黒光りしている丸いちゃぶ台の上に湯飲みを置いた。単純明快に説明すればそのとおりなのだが、私の目には、彼の手が移動してきてちゃぶ台の上で一度止まり、さらに動いたら湯飲みが出てきたようにしか見えなかった。どこかの旅館に常備されていそうな、低く丸い、紺地に白の餅紋《もちもん》が入った湯飲みは決して小さくはないのに。
「佐藤、すまなかったなぁ。本当に助かった。……えっと、水野くんだっけ? 君にも迷惑をかけたね」
 私たちの対岸に腰を下ろした彼は、失礼ながら見た目とは裏腹に、とても紳士的な対応ができる人だった。相好《そうごう》を崩してにっこりと笑うと、いわゆるベビーフェースで愛嬌《あいきょう》がある。
「いえ。私はこれといって何もしていませんから」
「そうかい? その割には、ミャーコは佐藤よりも君に慣れているように見えるけど?」
 彼は豪快に「がはは」と笑いながら言った。声は見ために反せず、とても大きくてやや低め。日本人にありがちなハイバリトンの声。
 体格と声はバランスが取れているのに応対はとても丁寧。そのあたりが妙にアンバランスなのだが、嫌気がない。こういう人もいるのだな、とちょっと感心した。
「そーなんですよ、先輩。 世話のほとんどは私がやったのに、結局蓉子のほうにばかり懐《なつ》いちゃって」
 聖は出されたお茶を遠慮せずに飲みながら、面白そうに言う。
 そうなのだ。
 正味3日間しか我が家にいなかったのだが、ネコ——ミャーコ——は結局私の方に、より甘えてくるようになっていた。聖のほうといえば、単に「遊んでくれる人」との認識で終わったようだと、昼ごろ部屋《マンション》を出るときに、玄関先で笑いながら言った。
「こういう動物ってさ、家の主《しゅ》たる人物が誰かって、すぐに感づくんだよね。もちろん私と蓉子、どっちが格上とか格下とか、そんなのがあるワケじゃないけど、どちらがより精神的に上位にいるかって話になると、やっぱ蓉子のほうでしょ?」
 聖は駐車場へ向かうエレベーターの中で、苦笑しながら、そんなことも言った。
 聖の説には一部同意しかねる部分があるけれども、おおむね「なるほど」と思った。表面的になら確かに私の方が、聖を尻に敷いているように見えるのだろう。3ヶ月ほど前の引っ越しの時に共通の親友である鳥井江利子が手伝いに来て、聖に「ずいぶん躾《しつけ》されたじゃない。きれいに尻に敷かれきっちゃって」と言い、私には「ああいうのは尻に敷いとくくらいでちょうど良いのよね。ま、これからも頑張りなさいな」と耳打ちしてきたのが、記憶に新しい。
「そりゃ、お前が常日ごろやかましくしているからだろう? 佐藤」
 彼は心底楽しそうに笑う。
「ほれみろ、予想したとおりになったろう?」
「そのとおりですね。完敗です」
 聖が「お手上げ」というふうに、両手を肩の高さに上げた。
「でもよく分かりましたね?」
 聖がいたずらっ子のような顔をして、彼に問いかける。外でもこういう顔ができるのか、と私は聖を見ながら思う。
「そりゃぁ……な。佐藤、お前の話を聞いていたら、水野くんは俺の相方とタイプが似ているような気がしたからな」
「ありゃま」
 目の前の会話が、私のことを話題にしていながら、当の本人を置き去りにしてどんどん進んでいく。というか、どこまで私たちのことを話しているのか、この人に。
「ミャーコの飼い主は確かに俺なんだが、相方のほうにばかり懐《なつ》いちまってなぁ。やっぱり、声が大きすぎるとか、動きがガサついてるってのは、ダメだな。ちっとも馴れてくれん」
 彼はワタシの膝の上でくつろいでいるネコ(ミャーコ)を指さしながら、がははと笑う。馴れてくれないと口では嘆いているが、だからといって自分の行動を改めようとは思わないらしい。
「先輩、先輩。相方って言い方はないっしょ? だって——―」
 聖が言葉を続けようとしたその時、玄関の扉が予告なく開いた。カラカラと小気味良い音が広くはない家の中に響く。すると、ネコ《ミャーコ》がぴくりと顔を上げ、いきなり玄関方面に向かって飛び出した。
「きゃ……!」
 どうやって立ち上がったのか、私にはまったく見えなかった。
「蓉子!」
「大丈夫か? 水野くん」
 ふたりの声が、フレーズは違うのに見事にハモる。
『あら、帰ってたの? おかえり』
 ネコの様子とふたりの慌てぶりに驚いていると、ネコが駆けていった方向からやわらかい女性の声が小さく聞こえた。その声で私たちは全員我に返る。
「あ……ああ」
 この家の主は、浮かしかけた腰をまた下ろし、私に向かって深々と頭を下げた。
「いや、水野くん。すまなかった」
「いえ、ちょっと驚いただけなので。私《わたくし》の方こそ、大きな声を上げて、申し訳ありませんでした」
 私も彼に頭を下げていると、玄関を開けたと思われる女性が右腕にネコを抱き、左手に買い物袋《ショッピングバッグ》を下げて、居間に入ってきた。
「いらっしゃい、佐藤さん。それから相方さんも」
 飾り気のない七分袖のTシャツにサマーカーディガンを羽織り、洗いざらした風合いのジーンズという出で立ちのその人は、飼い主の彼同様、私たちよりもやや年上に見えた。
「あ、先輩。お邪魔してます」
 聖がぺこりと頭を下げる。私も聖にならって頭を下げ、自己紹介をする。
「はじめまして。水野蓉子と申します。佐藤の——」
相方さん、でしょ?」
 女性は、ふふふ、と悪戯っぽく笑っていったん台所に消えると、すぐに戻ってきて男性の横に座った。買って来たものを置いてきただけのようだった。
「同居人ですってば、先輩」
 聖が『参ったなぁ』といった風情でとりあえず訂正したが、彼も彼女も、どうやら私たちの関係を完全に見抜いているようだった。もしかしたら、聖がうっかり口を滑らせたのかもしれない。もしそうならば、後でこってりお灸をすえなくては。
 そんなことを考えていると、聖がいつも持ち歩いている雑嚢《ざつのう》風のカバンから、なにやらゴソゴソと取り出してちゃぶ台の上に乗せた。そしていきなりこう言ったのだった。
「先輩方。あらためて、ご結婚、おめでとうございます。これ、蓉子と私から」
 寝耳に水だった。そんなこと一言も聞いていない。
 ぎょっとして聖の方を見ると、聖の目が一瞬だけ、悪戯っぽく笑った。
 してやられた! ……そう思ったが、あとの祭りだ。
「おめでとうございます。たいしたものではなくて、お恥ずかしい限りなのですが」
 私は新婚夫婦(らしい)に頭を下げた。目の前のふたりにはたぶん通用しないだろうことは充分わかっていたが、それでもとりあえず体裁を整えてしまう自分が少し哀しい。
 だが、そんな私の様子などまったく意に介していないように見える新婚さんたちは、やや照れながら、聖が出したあまり大きくない箱を遠慮なく受け取った。
「ありがとう佐藤、水野くん。こっちがお礼をしなきゃいけないのに」
「やー、そんなに気にしないで下さい。……ね、蓉子」
「え……ええ。ミャーコのおかげで、楽しいひとときを過ごさせていただきましたし」
 口に出してから、しまったと思う。あまり気の利いた言葉ではない上に、取って付けたような言葉でもあった。
 和やかな時間が流れる。聖の先輩夫婦の結婚&新婚旅行の話——半月ほど英国を中心としたヨーロッパ各国を放浪してきたそうだ——はとてもおもしろい話題にあふれていた。博士課程に進む人たちはこんなにもエネルギーにあふれているのかと、驚いたり感心したりの連続だった。
 これから先、私はどんな大学院生活を送ることができるのか。まだまだ見えないことが多いけれど、できることならこの人たちのようにエネルギッシュで前向きでありたい。そう心から思った。
 ちらりとネコを見る。ミャーコは彼女の膝の上でまったりとくつろいでいた。そしてたまに彼の腕に前肢《まえあし》を延ばす。彼は「馴れない」と言っていたけど、でもネコがするその仕草は、彼を信頼しきってとても甘えているように見える。
 もう私なんか目の端にも入っていない。
 その事実が、ちょっとだけ胸に刺さった。

4.

 聖の先輩夫婦宅をおいとまして、私たちは車に向かって、河川敷の土手をぽとぽと歩く。
 赤い夕日が私と聖を照らし、長い影を作っている。もうこの時間にはやや肌寒くなりつつあり、そんな小さな事実に、そろそろ本格的な秋の到来を感じる。
 聖は私の数歩先を歩いている。やはりどこか寂しげな空気をまとっている。
「蓉子。……今日はごめんねぇ」
 聖が立ち止まって、こちらを向いた。
「なに?」
 私は、聖が何を指して謝っているのかがよく分からずに聞き返す。
 その声がちょっとぶっきらぼうだったかもしれない。聖はちょっと焦ったように私の顔を覗き込んで、こう付け加えた。
「いや、先輩のペットシッターさんが、彼女さんだったってこと」
 ああ、そのことか、と私は思った。
「そのシッターさんと一緒にご旅行だったら、それは仕方がないわね。それに、もう彼女さんではなくて、奥さんでしょう?」
「あ、そか。そだったね」
 聖が照れたように「えへへ」と笑う。私もつられて「ふふ…」と笑いが漏れた。
「ところで聖。あの方たちに、どこまで話したの? 私たちのこと」
 私はさっきから疑問に思っていたことを口にした。
「え……いーやぁ……」
 聖はあからさまに動揺した。前髪の向こうにある色素の薄い目が、少し泳いでいる。
「白状しなさい」
「あ。……いや、なん、て言うのかな」
 聖は困ったように自分の後頭部をガリガリとかいた。
「まったく話してないんだ。『高校時代の友人と同居してる』は、ゼミの名簿を作る時に申告したけど。……同じようにルームシェアしてる学生はみんな申告してたし」
「うっかりノロケ話をしたのではなくて?」
「いや、それはない」
 聖は私の疑念をきっぱりと否定した。
「6日くらい前かな、ネコをウチで預かりましょうか? ってメールしたら、折り返し電話がかかってきて、『佐藤さん、同居の彼女さんは大丈夫?』って訊かれたの。そんなこと一言も言ってないし、研究室内でそんな話題もしたことなかったから、心臓が飛び出るかと思った」
 ははん、なるほど。
「ばかね。鎌をかけられたのよ、あなた」
 聖が「あ!」と顎を落とした。あの先輩たちにやられた!……という顔だった。
「あ"ー——……」
 聖は両のてのひらで自分の頬を包み込むと、へったりと土手にしゃがみこむ。
 聖の髪に夕日が映《は》えて金色に燃え上がり、それがとてもきれいだった。私は聖の頭をポンポンと軽くなでて言った。
「あの方たちだったら大丈夫じゃない? 他人のプライベートをどこででも喋るような人には見えなかったわ、どちらもね」
 情けない表情(カオ)をした聖が、私を見上げて、へらり、と笑う。
「うん。私もそう思う」
「……いい先輩《ひと》たちに巡り会えたわね。博士課程の方?」
「うん。そう。……どっちも良い先輩だと思う」
「良かったわね」
「……うん」
 帰りましょう。と聖に手を伸ばす。その時私は土手に群れるそれに目を奪われた。
「え? ……なに?」
 私の様子に気がついて、聖も私の視線の先を追う。その先に広がっているのは……。
「ねこ、じゃらし?」
 聖がぽつりと言う。
 そう。俗に『ねこじゃらし』と呼ばれる草が土手の斜面に群生し、少し早いけど花穂を付けはじめていた。
 私は「ねこじゃらし」たちにに近づくと、そのうちの一本を手折《たお》る。花穂がまだ充分に育っていないそれは、今朝までネコが遊んでいたそれと、色は違えど酷似していた。
 ねこじゃらしの穂を見ながら、私はふと思い出す。
 ネコが毎晩、ご近所にバレやしないかとこっちが冷や冷やするくらいに、激しく聖と遊んでいた姿を。そして、聖が言ったとおりに朝までほぼ起きなかった事実を。
 昨夜になってやっと、通常の体長よりも倍ほど伸びた格好で死んだように眠るネコを見ながら、聖がわざとネコを遊ばせているのではないかと思い至ったことを。
 まだ完全に成猫ではないということだったが、ネコは元来、夜行性の動物のはずで。夜中に家の中を飛び回って暴れることがないように、聖はネコの体力が尽きるまで遊ばせていたのではないだろうか。
 もちろんこれは私が勝手に想像したことで、聖には問いただしていないから、真相は分からないのだけど。すでに肝心のネコがいなくなっているのに、今さらそのことを訊くのは、あまり意味がないことのように思う。
 ふいに、ネコが喉を鳴らす手触りが、私の中にわき上がる。
 あんなにちいさな生き物でも確かに生きているのだという、その証《あか》し。
 手のひらに伝わる小さな振動が、その体温と共に、生命へのエネルギーとなって、私を圧倒していたことを。
 今になって、私は思い知ったのだ。
 命の重み。
 そして、その存在のかけがえなさを。
「蓉子……」
 聖がふわりと私を包む。
「……泣かないで」
 そう言われて、はじめて自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめん。……ごめん、蓉子」
 今日二度目の、何に対して謝っているのか分からない言葉を聖がつぶやく。つぶやきながら、私の背中をゆっくりとなでてくれた。
「聖……」
 やがて、落ち着いた私は、聖に問う。
「猫、飼いたい?」
 しかし聖の首が、横に振られた気配がした。
「……まだ、私は、ガキだから」
 そう言うと聖は、お互いの顔がよく見えるとこまで体を離し、へらり、と笑った。
「子供を持つのは、やっぱ学生の身分では早すぎっしょ?」
 何とも小憎たらしい言いぐさ。でもそれが佐藤聖。
 私の大好きな佐藤聖。
「帰ろ? 蓉子」
 聖が私の手を引いて土手を歩き出す。私はそんな聖の手をにぎり返す。
 反対の手には「ねこじゃらし」。
 思わず手折ってしまったけれど、家に帰ったら一輪挿しに挿してやろう。
 ごめんね、ねこじゃらし。みんなと一緒に生えていたのに。
 聖に手を引かれて歩きながら、私は手にしたねこじゃらしが生えていたその場所を振り返る。
 河川敷に吹くかすかな風に、群生した狗尾草《ねこじゃらし》の、それぞれ思うままに揺れている姿が、小さく見えた。
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